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天女降臨 03

俺と加奈子がデート。
信じられない。今まで外で二人きりには絶対なってくれなかったのに。急にだ。
浅草雷門で待ち合わせ。

馬鹿な俺は2時間も早く待ち合わせ場所に来てしまった。俺は時間を潰すために合羽橋の道具街まで行って買う気もないのに丼とか箸とか店先にならんだ台所道具なんぞを眺め、もしかしたら加奈子がもう来てるかもしれないと思って雷門まで引き返し、やっぱりいなかったんで、今度は上野のガード下まで行ってやはり買う気もないのにジーンズやミリタリーグッズなんかを物色したりした。

そうこうしているうちに俺はやっぱり加奈子がもう雷門まで来てるんじゃないかと再び不安になってきて、慌てて地下鉄銀座線に乗って浅草に戻ってきた。俺は聞いたことがある。この、上野浅草間の地下鉄が、日本で最初に掘って通した地下鉄なんだってさ。そう言われてみると確かに渋いよなあ。開通当時昭和2年の面影を、今も残している。

約束の時間まであと15分。やはり加奈子はまだいなかった。
なにやってんだ俺って少し落ち込んだ。
午後1時ちょうどに吾妻橋のほうから加奈子はやってきた。
加奈子は私服だ。
あたりまえだ。

休日の午後なんだから私服を着てるにきまってる。すぐ汚れちまいそうな真っ白なジーンズをはいて、白と黒のボーダーのシャツにえんじ色の革のジャケットを羽織っている。いやー。加奈子は何を着てもさまになってるなあ。その上頭の上にサングラスを乗っけてる。普通の女の子がこんなかっこすれば、いやに気取ったやつだなって思うだけだが、加奈子だとまったく違和感ない。まるで浅草にロケに来たモデルだ。

俺は一気に緊張したが、わざと落ち着き払って、言った。
「ご飯は食べてきたのか?」
「ううん。まだ起きたばっか。」加奈子は少し眠そうにあくびした。
「俺もさ、加奈子が食べてくるのかこないのか、わかんなかったから、俺も念のため食べずにきたんだ。」
「そう。よかったわ。私もちょうどおなかすいてきたし。どこか食べにいこうか。」
「うん。どこが良い?」
「浅草って言えば食べ物は何かしら?」
「さあ?」いろいろありすぎて思いつかない。「スッポン鍋?」明らかに高校生カップルがデートで食べるようなものじゃない。
「わたし、焼きそばが食べたい。」
「焼きそばって?ソース焼きそばのこと?」
「そう、それ。こないだ焼きそばは浅草名物だってテレビでやってた。和洋折衷の浅草焼きそば。なんかおしゃれじゃない?大正ロマンっぽい。」

たかが焼きそばに大正ロマンとはね。
たしかに俺も、浅草はソース焼きそば発祥の地だって、聞いたことがある。この界隈にはあちこちにソース焼きそばを出す店もある。

「そういや、合羽橋と浅草のちょうど中間くらいに、ソース焼きそばの専門店があるんだよ。」
「へえ。そうなんだ。有名なの、その店?」
「さあ。でも、珍しいだろ。店先でもソース焼きそば売ってて、出てくる料理もソース焼きそばだけなんだ。」
「超珍しいね。」
「ちょっと歩くけど、行ってみる?」
「うん。行こうか。」

世間一般のデートってこんなもんなんだろうか。
よくわからない。
でもなんとなく今のところ良い雰囲気でうまくいってる感じがする。

「そういえば、卓也っていつも購買で焼きそばパン買って食べてるよね。」加奈子はクスッと笑った。

良く見てやがる。
加奈子は絶対俺に気があるのだ。だからいつも俺を観察して、俺の生態を熟知しているんだ。

「まあね。俺は好きだよ、焼きそばが。」
「焼きそばとパンってどっちも炭水化物じゃん。小麦粉じゃん。変だよね。」
「あー。まあね。変だよね、良く言うよね。お好み焼きとかたこ焼きをおかずにご飯食べるの変じゃんとかね。まあね。でもいいんだよ。塩おにぎりだって醤油かけご飯だって全部炭水化物だよ。ふりかけご飯や炊き込みご飯だってほぼほぼ炭水化物だ。いいんだよ人類はとりあえず炭水化物食っとけば。」
「そうね。」

雷門の前の通りを西へ。ぶつかって左に折れればすぐのところにその焼きそば屋はある。今までしょっちゅう前を通ったことはあって、少し気にはなってたが、入ったことはなかった。

入り口のすぐ脇に焼き場があってそこでおじさんが鉄板で焼きそばを焼きつつ、パッケージに詰めて通行人に売っている。店先のショーケースにはおにぎり、かんぴょう巻き、いなり寿司なんかも並んでる。

間口も狭いが店内もそんなに奥行きはない。二人向かい合わせでやっと座れる程度の、安っぽいビニールのテーブルクロスがかかった机がいくつか並べてある。テーブルの上には割り箸立てとソースのボトル。これはなにか。俺の勘では、焼きそばを焼くソースとこのテーブルに置いてあるソースはまったく同じものだろう。味が薄ければ自分で好い加減に足して調節しろってことに違いない。

やはり安っぽい作りのベニヤ板を張っただけの壁には年期の入ったメニューがご丁寧にも賞状かなんかを入れる額縁に入れて吊してある。

「二人なんですがどこに座ればいいですか。」
「どこでもいいよ。」 とヘラを手に前掛けをしたいかにもそれらしいおじさんが言うので、俺たちは適当に席の一つに腰掛ける。
「うちは焼きそばしかないよ。」
「ええ。もちろんその焼きそばを食べにきたんです。」
「特盛りを二人で分けたほうが安いよ。」おじさんがニヤニヤしながら言うので、俺は加奈子の顔をのぞき込む。

「じゃあ取り皿一ついただけます?」
「ああ。取り皿ね。仲良く分けて食べな。」
「お嬢さん。飲み物は?」奥からおばあちゃんがでてきて給水器でお冷やを注いで持って出てきた。老夫婦で店をやってるらしい。

お冷やがあれば十分かと思うが、せっかくだから何か飲もうかと改めて壁のメニューを見たが、たった五品しかない。焼きそば。特盛り焼きそば。サイダー、コーラ、そしてジュース。それだけ。

他にはないかと店内を見渡したが、「おみやげ 焼きそば」「浅草名物 焼きそば」と書かれた張り紙や額縁くらいしかない。後はビールもあるらしいが未成年者の俺たちには関係ない。

「俺、サイダーください。」
「ジュースはオレンジジュースですか?」と、加奈子。
「そうだよ。」
「じゃあそれください。」
「はいよ。」

そんな感じで俺たちはオーダーを済ませた。
デートってこんな感じでいいんだろうか。
俺にはよくわからない。
でも、今のところうまく行ってると思う。たぶん。

「こうやって浅草で卓也と食べ歩きするなんて、これが最初で最後かと思うと、ちょっと悲しくなってきた。」
「どういうことだよ。おまえ、転校でもするのか。」そういや加奈子の両親は二人とも商社のバイヤーか外務省の外交官か何かで、あまり日本には居着かないとか、聞いたことがある。「親が転勤するとか。」
「親はいつもどこかしらに転勤してるのよ。いちいち私まで転校してられないわ。」
「へえ。一人暮らし?」
「そうね。親が二人とも海外出張ってことは良くある。」
「寂しけりゃ俺がいつでもなぐさめてやるよ。」
「バカね。何言ってんのあなた。」
「あ。もしかしておまえ、こないだ話していた、星の世界から来たって話の続きをしようってのか。またおまえ、星の世界に帰っていくのか。」
「ううん。どこにも行かないわ。」
「どこにも行かない?つまり、ずっとここにいるけど、俺とはもう今後、こんなふうにデートしたりしないってことか。誰かまた彼氏ができたってことか。俺の他に。」

加奈子はまたしてもクスッとわらった。

「デート?これってデートなの?」
「デートだろうよ。男と女が二人で時間を決めて会って食事に行く。立派なデートじゃんか。」
「わたしたち付き合ってないでしょ。付き合ってなきゃ、二人で会って食事しても、デートとは言わないんじゃない?」
「じゃあなんでおまえはわざわざ俺を呼び出したんだ。俺に星の世界の話をするため?俺をおまえのファンタジー趣味に付き合わせるためか?」
「ねえ、卓也。私たちくらいの若い男女が、くっついたりはなれたりするのは、本能なのよ。私たちは脳内ホルモンや脳内麻薬に操られているの。最初はくっつけておいて、しばらく経つとはなればなれになる。そうすると人は一番効率的に繁殖する。うまいぐあいにDNAがシャッフルされる。
人はね、理性があり、感情がある。理性と感情は人それぞれが持っている人格と言って良い。でも人格とは別に、脳内の化学物質によって人は操られる。理性と感情は脳細胞の働きによる人格。でもそれよりはるかに強く人を支配しているのは脳内の化学反応なのよね。人格はある程度までデジタルで、人が自分の意志で制御できるものなのだけど、脳内化学反応は、完全にアナログな現象で、人の意志ではどうにもならないものなのよ。」
「だから?」
「あなたは自分の意志で恋愛してるつもりかもしれないけど、実は脳内化学物質に操られているだけなのよね。自己とか自我とか人格というものから最も遠いのが恋愛感情。」
「おまえはなぜそこまで言い切れるんだ。なぜそれほどまでに、恋愛感情を嫌悪しているのか?」
「感情に溺れず自分を律するのは社会人として当然でしょ。」
「おまえはつまり、俺がおまえを好きだというのは俺の人格に由来するのではなく、俺の脳内化学反応にすぎない。俺は自分を律してない。そう言いたいんだね。」
「そゆこと。つまり恋愛とは、煎じ詰めれば、ただの、種の保存本能だってことよ。思春期になると誰もがその本能にせき立てられるように、自分のパートナーを求める。自然界によく見られる現象の一つにすぎない。杉の雄花が花粉を撒いて雌花が受精し、鮭のカップルが排卵して射精するのと同じ。」
「いまさら性教育はよせ。それの何がいけない。人間だってオスとメスからできてる。」
「あなたも知ってる通り、」加奈子はもったいつけた、「私に言い寄る男はいくらでもいるの。いちいち恋愛感情を持ってちゃ身がもたない。いえいえ。心がボロボロに壊れてしまう。わかる、あなたに?」
「加奈子、おまえこそ、俺を好きだという脳内化学反応を、無理矢理、理性と感情によって押さえつけているんじゃないのか?」

加奈子はにっこり微笑んだ。「ううん。私はそんな野蛮なことはしないわ。」
「野蛮、とは?」
「意志の力で本能に打ち勝とうとしても無駄よ。」
「おまえはじゃあ、俺が好きだという本能をどうやって打ち消しているんだい?意志の力じゃないとしたらなんだ。理性?それとも感情?」
「あら、焼きそば、できたみたいね。」加奈子は話をそらした。加奈子のいつものやり方だ。

おじさんが焼きそばを皿によそって俺たちのテーブルに置き、取り皿も忘れずに持ってきた。加奈子が自分の分を取り皿に取り分けて俺たちは割り箸をパチンと割って、「いただきます」して食べ始めた。

普通のソース焼きそばだ。ごく普通のソース焼きそばとしか言いようがないソース焼きそばだ。具はキャベツと豚バラのみ。茶色くソース色に染まった麺に青のりがふってあり、紅ショウガが端っこに添えてある。

この店がいつのころできたのか知らない。もしかすると戦後の闇市の頃から、いやそれよりも昔、日本に舶来の文化が伝来し、浅草でいわゆる洋食というものが流行るようになり、和風のなんだかよくわかんない洋食が、大量に生まれてきた明治や大正の頃から、こういう味だったのかもしれない。元祖とか本家の味というものは本来そうしたものなのかもしれない。ともかくごく普通の、スーパーの特売で3束100円で売ってるソース焼きそばとなんら変わらぬ味だ。そう。縁日の屋台で良く食べたあの味。キャンプ場で作って食べたあの味。俺の好み的に言えばもう少し麺にコシがあったほうがいい。でもまあこれはこれで良い。

サイダーは三ツ矢サイダー。ジュースはバヤリースのオレンジジュース。焼きそばに不思議とサイダーが合う。

「これからこの浅草は、東京は、様変わりしてしまうわ。だから、こんな昔ながらの、普通の浅草は今日が見納めだって、わたしは言ってるのよ。だからね、卓也。今日はいっぱい楽しみましょ。最後の浅草を。」

「何を言ってるんだ。浅草が、東京が、どう変わってしまうっていうんだよ。」

加奈子は辺りを見渡した。この店に今、客は俺ら一組しかいない。店員のおじいさんは通りを眺めており、おばあさんは奥に引っ込んだ。俺らの話に興味を示したり聞き入ったりするような者は誰もいない。それを加奈子は、用心深く、確認し、口を開いた。

「私はあなたを試したいのよ。あなたが私たちに協力してくれるかどうか。私たちを信じて秘密を守れるかどうか。」
「は?私たち?私たちって誰だ?」
「あなた、赤ん坊のかぐや姫がたった一人で地球に来たと思う?」
「えっ。」
「私たちは大勢でこの地球にやってきた。」
「評議会が送り込んだ調査団。」
「そう。その調査団のメンバーの中で、ある男と女にたまたま恋が芽生えて、宇宙船の中で私を出産したの。それが私の両親。父と母は私を連れて地球に降り立った。そして任務が完了するまでしばらくの間、私を地球上で育てたの。」
「まじかよ。その話を俺に信じろっての?」
「信じられないでしょ。」
「信じられないよ。」
「どうしたらあなたは信じるようになるかしら。」
「さあ。なんか奇跡を起こしてくれよ。そしたら信じてやる。」
「奇跡?」
「うん。この世じゃ絶対に起こりえないことさ。」
「ふうん。じゃあ今夜、私の仲間たちが、ズーズルをハッキングしてすべてのサーバーをシャットダウンしてみせるわ。」
「は?ズーズルを?」

ズーズル。言わずと知れた世界最大のネット企業だ。

「ズーズルが通信障害を起こしたら世界中、すべての企業が影響を受ける。産業も、経済も止まってしまう。」
「そう。それが私たちの最終的な目標。人と人の交流を遮断して人類を衰退させる。」
「ズーズルをハッキングすることなんてできるのか。」
「できるわよ。お茶の子さいさいよ。」お茶の子さいさい?それって死語じゃね?「そもそもわたしたちの仲間は、もうすでにズーズルの内部にもいるわ。政府機関にも、世界企業にも、どこにでも潜入している。」

「なぜそんなことをする。」
「だから、私たちは人類を衰退させるために地球に来たの。」
「人類を衰退?」
「うん。」
「世界を救うためじゃなく?」
「衰退させて世界を救うの。」
「えっ?」
「このまま人類が突っ走ると滅亡するから衰退させることで救うわけ。」
「あー。そっちかー。結局、世界を救う話なわけね。」
「なんか卓也、私をバカにしてない?」
「してないしてない。でも、世界を救うために人類を懲らしめる?」
「うーん。ある意味そうとも言える。」
「世界を救うために人類を不幸にして良いのか?」
「人類も幸福になるわよ。世界を救うんだから、結果的には。」
「ややこしい理屈だな。」

「世の中はハリウッド映画みたいに単純じゃないの。宇宙人がある日突然地球に攻めてくるとか。悪の組織が国家を転覆しようと企てるとか。そこにヒーローが現れて世界を救う?ある日突然、何の脈絡も必然性もなく、普通の少年がヒーローになり、普通の少女がヒロインになる?なんなのよそれは?

世の中は、ありとあらゆることが複雑に関係している。誰もが納得できる、すっきりした解決方法なんかないのよ。」
「ああ。そりゃそうだろうさ。」
「私も最初は断ったのよ。私のガラじゃないしさ。世界を救うとか。人類のために働くとか。でも仕方なく引き受けた。」ジュースをすすり、前髪を気にしてかきあげながら、加奈子はそう言った。まるでマックにいる女子高生みたいに。まあ、ここはマックじゃなくて浅草焼きそば屋だけど。でも、加奈子はれっきとした女子高生ではある。

「なぜ。」
「それが評議会の決定だからよ。評議会は、もう何億年も前から銀河の秩序を守ってきた。もちろん過ちも犯したわ。大きな戦争もあった。でもそれらの教訓が積み重なった結果が今の銀河連邦評議会。私たちはその一員だし、あなたがたもやがて私たちの一員になる。あなたがたもいずれ、私たちの意図を理解し、協力することになる。今、にわかに信じられなくてもね。」

おおー。なりきってるぞ。いーい感じになりきってるぞ加奈子。

加奈子が熱弁を振るう間、俺は加奈子の肩越しに、表の通りを行き交う人々をぼんやりと眺めていた。そこにはなんだかんだいいながら平穏無事ないつもと変わらぬ人々の日常があった。

「それから卓也、きっとあなたって人はそれでも信じられないでしょうから、そうね、いまから数日後、そうね、遅くとも一週間以内に、富士山を噴火させる。空高く吹き上げられた噴煙は偏西風に流されて、浅草にも火山灰が1メートル以上積もって、首都圏の交通は麻痺するわ。東京は関東ローム層に覆われた原野に戻る。」

「はあ?妄想はよせよ。」 もうちょっと、「身の丈に合った」ナリキリやれよな。

も少し曖昧で、はずれても適当にごまかせる預言にしといたほうが、長く楽しめるだろ。

「私たちの文明の力を使えば、できないことは何もない。あなたがたの科学力で想像が付くことくらいならばね。実際ついこないだ、たった300年前にも、関東東海に群発地震が頻発し、富士山は噴火して、江戸の街にも灰が積もったってことがあったじゃない?あのくらい朝飯前よ。」
「あったじゃない?じゃねーよ。そんな昔のことなんか俺が知るわけないだろ。」

富士山を噴火させるだって?
よっぽどネジの外れた陰謀論者だってなかなかそんなことは言わないぜ。

しかし今の世の中、地震がおこりゃ、某国某首相が国民の目をそらすために起こした人工地震だ、北朝鮮がミサイル発射したら某国某首相が国民の不安を煽るために打たせたんだ、なんていうこと言うやつがいるくらいだからなあ。

もしほんとに富士山が噴火したら絶対某国某首相のせいだって言うやつが出てくるはずだ。

俺たちはあっというまに一皿の特盛り焼きそばを食べ終えてしまった。

高校生ならファミレスでもハンバーガー屋でもコーヒー1杯で何時間でも粘るところだが、この店はどうもそんな雰囲気ではない。

「場所変える?」
「うん。歩こうよ。」

俺は意を決して言ってみた。

「花やしき行かないか。」
「花やしき?遊園地ね。何に乗りたい?」
「いっしょにジェットコースター乗ろうよ。」
加奈子はまたクスッとわらった。「良いよ。行こう。」
「お勘定お願いします。」

焼き場のおじさんは電卓で計算して紙に金額を書いて俺に渡した。

俺は財布から千円札を一枚だしておじさんに渡して釣り銭をもらった。

「あらダメよ。割り勘にしなきゃ。」
「そんな高くなかったぜ。」
「おごってもらうわけにはいかないわ。」
「どうして。」
「私たちただの友達でしょ。」
「そうだな。」
「今日は暖かいね。」
「ああ。」

俺たちは二人並んで、でも手をつなぐでもなく、一つのマフラーを二人で巻くでもなく、なんだかとてつもなく妙な雰囲気で、なんとはなしに道を歩き始めた。

「そういえばおまえはこないだ根岸にひどいことをしたね。」
「仕方なかったのよ。」
「冗談が過ぎるよ。」
「冗談なんかじゃないってば。」
「おまえが俺に、場を盛り上げようとおもって、あることないこと、ほら話をしてくれるのはうれしいよ。でもあれはちょっとやりすぎだ。ヤバいよ。あのドラッグはどこで手に入れたんだ。上野のガード下か?それともネットの通販?それとももっとヤバい経路で?渋谷の路上でヤクの売人から仕入れたとか。」
「そんな渋谷のチンピラが路地裏で売ってるようなちゃちな品じゃないわよ。私たちが秘密を守るために所持と使用を許されている正規の支給品。」
「評議会から支給された?」
「そう。」
「やれやれ。」
「あなたやっぱり私が言ったことぜんっぜん信用してないわね。」
「信用するも何もネタだろ。話を盛り上げるための。」

加奈子は小さなため息をついた。 「あなたがそういう性格の人だってことはわかってる。一度じゃ私の言うことを信用しない。何か確かな証拠でも見せない限り、信じないって。だから、今夜を楽しみにしててね。」
「はいはい。」

正直俺はジェットコースターなんか全然興味ない。
怖いとか嫌いとかそういうのでなく、全然わくわくしない。
興味があるのは加奈子のことだけだ。
加奈子と花やしきでコースターに乗る。こんな時が来るのを俺はどれほど待ち望んだだろうか。
俺たちは花やしきに入り、チケット買って列の最後尾にならんだ。
長い長い行列。
俺はせっかちなんで、行列に並ぶのが嫌いだ。
でも今は、加奈子と二人ならんで行列に並んでいるのがこの上なくうれしい。少しずつ進んでいく順番。列はうねうねと柵で仕切られてうねっている。俺たちはじわじわと前進する。

「加奈子、おまえが最初に地球に来た時のことを話してくれないか。」
「どんなことを。」
「そうだな。そのとき日本にはもう天皇がいたの?」
「天皇?いたわよ。いくめいりびこいさちのすめらみこと。」
「何だって?」
「イクメ・イリビコ・イサチのすめらみことよ。」
「それが天皇の名前?」
「そうよ。知らないの、日本人のくせに。」
「天皇の名前って漢字2文字じゃないの。」
「それはたぶん後の世になってから付け直した名前じゃないかしら。」
「じゃあ、そのイクメ天皇は今ではなんと呼ばれてるのかな。」
「知らないわ、そんなこと。興味ないし。」
「そうだよね。じゃあそれで、おまえに言い寄ってきた男たちはどんなやつだった?」
「うんとね。さぬきたりねのみこ。おほみなくちのすくね。いかがしこをのみこ。ひこくにふくのみこ。たけぬなかはわけ。はにやすひこのみこ。そして、ひこふつをしのまこと。」
「なんだか、ずいぶんわかりにくい名前ばかりだね。よく覚えてられたね。」
「あなたたちの名前だって昔の日本人が聞いたらとても奇妙で覚えきれないと思うわよ、きっと。」
「そりゃそうだろうね。」
「サヌキタリネは太りすぎ、オホミナクチは年寄りで口が臭すぎて、最初から論外だった。イカガシコヲとヒコクニフクとタケヌナカハとハニヤスヒコは若くてハンサムだったから、お題を出して、珍品を取ってきてくれたら結婚しても良いって約束した。」
「あれ。もう一人いたよね。たしかなんとかのまこと。」
「ああ。ヒコフツヲシノマコトね。そうそう。彼はほんとに押しの強い男だった。すでに妻を何人も持っているのに私を新たに本妻に迎えたい、なんてわたしを口説きにきた。わたしは彼が金でなんでも解決しようとするいかさま師だってことをすぐに見抜いたわ。」
「12才の少女が?」
「そうよ。まあ、父や母の助言もあったかもしれないけど。だから彼にはお題は出さず放置しておいたの。ところが勝手に、東の海の中にある蓬莱島に自生する、七色に輝く宝玉を実らせる枝、「蓬莱の玉の枝」というものを持ってきて、これを差し上げますから、私の妻になってください、なんて勝手に談判してきたのよ。あなたとはそんな約束もしてないし、こちらから条件を提示したわけでもないんだから、お引き取りくださいって言って押し問答してるうちに、彼が雇った職人たちが、蓬莱の玉の枝を作った手間賃をまだいただいておりませんがって押しかけてきてね。それで彼の贈り物が、東の島に自然に生えたものではなく、人がこしらえたまがいものだってことがばれたわけ。それでおひきとりねがったわ。」
「つまり加奈子、おまえは権力者が金の力でなんでも解決しようとするのが嫌いなわけだね?」
「どうかしら。金でも権力でも持ってるものは好きなだけ使えば良いんじゃない?遠慮せず。」
「でも君はそのヒコなんとかマコトが嫌いだったんだろ。その理由は?」
「だからオシの強い男は嫌い。言われたことを言われた通りにやる人が好き。」
「へー。そうなんだ。」

つまり自分が主人になって従順な男を下僕に使うのが好きなだけなのでは?まったくお姫様なんだからなあ、加奈子は。

「その求婚者たちの中で、おまえが一番好きだったのは誰?」
「うーんとね。埴安彦(はにやすひこ)かなあ。」
「ハニヤスヒコ。ふうん。どうして彼が好きだったの?結婚しても良いって思った?」
「まさか。結婚なんかするわけないでしょ。

ハニヤスヒコはわざわざ私のために船で加羅(から)に渡って、韃靼(だったん)の奥地まで行って、つまり日本から朝鮮を経てモンゴル高原まで旅して、幾多の苦難を乗り越えて、ほんものの火鼠の皮衣を取ってきてくれた。彼だけだったわ。ほんとうに私の言った通りのことをやって、やりとげてくれたのは。」

「火鼠の皮衣って?」
「火で焼いても燃えない、鼠の皮で作った衣よ。」
「そんな、火で焼いても焼けない皮の鼠なんてこの世にいるわけないじゃん。」
「私が欲しかったのは、韃靼、つまり今の内蒙古、ゴビ砂漠あたりに生息している、当時現地で、火鼠と呼ばれていた砂鼠の一種の、体毛の中で繁殖するバクテリアだったの。」
「へっ?バクテリア?ダニか寄生虫かなにかか。」
「細菌のことよ。いわゆるばい菌とか雑菌とかありとあらゆる微生物のこと。」
「ふうん。で、どうしてそのバクテリアが欲しかったの?」
「私たちが評議会から与えられた使命の一つはこの地球上に生息するありとあらゆる生物をサンプリングすること。その火鼠のバクテリアはとても貴重な絶滅危惧種で、どうしても手に入れたかったの。私がというより、私の父が。父は細菌学者でね。讃岐国を拠点にして瀬戸内地方で、竹の地下茎に生息してるバクテリアを採集して回ってた。だからみんなから「竹取の翁」って呼ばれてたんだけど。」
「ええっと?俺の記憶が正しければ『竹取物語』によればかぐや姫は竹の節の中に入っていて、それを赤の他人の竹取の翁が見つけて育てたってことになってるはずだが。」
「物語ではそうなってるけど、私たちはれっきとした、血のつながった親子なの。」
「あっそ。」
「父は小躍りしていたわ。わざわざモンゴルまでいかずに貴重な資料が手に入ったってね。」
「おまえは、おまえに贈り物をした男と結婚するって約束したんじゃないのか。」
「そうなのよ。彼の苦労話を聞いているうちにね、涙が出てきちゃって。私もちょっと彼に惚れてしまいそうになったの。ほんとうにこの人のお嫁さんになっても良いかもしれないって、一瞬思っちゃったくらいに。でもそこで父が出てきて、おい、ハニヤスヒコ。この火鼠の皮衣がまことに火鼠の皮でできているのであれば火で焼いても燃えぬはず。今からためしに燃やしてみるが、よいかと。そしたらハニヤスヒコは、どうぞお試しください。それは私が苦心惨憺して手に入れた正真正銘の火鼠の皮衣です。さあさあ、遠慮無く、いますぐに火にくべてごらんなさい。そう言ったのよ。そこで父はその皮衣を囲炉裏の火の中に落としたのだけど、当然ながら、その皮衣はめらめらと燃えてしまったわ。父はすでにその皮からバクテリアを採取していたので、燃えてしまってもちっとも惜しくはなかったのよ。
それを見たハニヤスヒコの顔からさっと血の気がひいて、草のようにまっさおになって、気を失ってその場に倒れてしまったわ。」
「そりゃお気の毒に。同情するよ。そのハニヤスヒコさんとやらに。」
「タケヌナカハは武人で、すごく乱暴者で、女心なんてまるでわからない人だった。父は、彼に海南島に棲む「海燕の巣」を注文したけど、彼が持ってきたのはただのツバメの巣に溜まった糞だった。イカガシコヲには天竺で採れるサルノコシカケ、ヒコクニフクにはカムチャッカで採れる苔を所望したんだけど、適当にその辺のキノコだかコケだかを持ってきただけだったわ。」
「おまえは男たちをおまえの欲のために利用したんだ。面白半分にね。最初から彼らとの約束を反故にするつもりで。ひどい女だよおまえは。」

加奈子は一瞬、俺の言葉に目の色を変えて、歯を食いしばった。俺はヤバい、口が滑ったと思い、平謝りに謝ろうしたんだが、でもすぐに彼女はその感情を顔の表から消した。
「ええ。わたしは悪い女だったわ。ほんとに悪い女だった。これまでずっと。帝にも「おまえのそんなつれない心が、これまで多くの男たちを殺してきたのだ、」と咎められたわ。その通りだわ。そして、あなたにも。これまでいろいろと迷惑をかけたわね。ごめんなさい。」
「いやだなあ加奈子。俺に謝らないでくれよ。加奈子らしくない。俺と加奈子の仲じゃないか。加奈子は加奈子だ。」

俺は、おまえのすべてをひっくるめて、おまえが好きなんだ。良いところも悪いところも。美しいところも醜いところも。全部含めて。俺はそう言おうと思ったが周りの目が恥ずかしくて言えなかった。代わりに、
「俺はおまえのすべてを許す。だからおまえも俺のすべてを許してくれ。これからもずっと。な、加奈子。」
なんてことを口走っていた。

花やしきには子供の頃から何度も来ていてすっかり飽きてしまっていたが、今日あらためて加奈子と来てみて、やっぱりそんなにおもしろいわけではなかった。ただ俺は、花やしきに加奈子と来たっていう既成事実ができたことがとてもうれしかった。何よりも加奈子と二人だけでいられるのがうれしかった。

コースターに乗ってみたけど、やっぱりそれほどおもしろいわけではなかった。花やしきで加奈子といっしょにコースターに乗ったっていう、また一つ実績解除できた、彼氏彼女としてのレベル上げができたことがうれしかった。それは俺と加奈子の間の距離がまた一歩だか、1ミリだか知らないが近づいたことを意味した気がした。まあしかしコンプリートにはまだまだ先が長い。

俺にはむしろあの長い長い行列に並んでいる時間のほうがずっと貴重に思えた。加奈子と何もしゃべらずただいっしょにいられればよかった。不思議だ。せっかちで、行列に並ぶのが嫌いな俺がそんなふうに感じるなんて初めてのことだった。

コースターに乗ってる間俺はずっと彼女の肩に手を回したって良いんじゃないかってそればっかりずっと思ってた。でも俺の経験上、そういうことをしたら彼女は大声で叫ぶかおおげさに嫌がって、周りの冷たい視線が俺に刺さるだけなのだ。

今日はデートなんだ。だからそのくらい、ふざけたふりしてやったって大丈夫だ。
俺にはそうも思えた。
だが俺にはそんな勇気を出すことができなかった。
俺と加奈子の間には目に見えない一線がある。
そこを超えれば身の破滅。
もう何度もなんども学習してきたはずだ、俺は。
俺はずっと自問自答していた。
コースターは一周した。
そしてもう一周して俺たちは降りた。
俺は結局何もできなかった。結局何も楽しめなかった。

コースターのほかにもいくつかアトラクションに乗ってみた。チケットはあっという間に全部使い尽くした。チケットがなくなっていくのが悲しかった。チケットは金をだせばまた買える。しかし、加奈子といる時間を金で買うような気がして、とてもさもしいいやしい気持ちがして、俺には買うことができなかった。

俺はただ加奈子と二人でずっと一緒にいたいだけだ。
別に何か話がしたいわけじゃない。

加奈子の前の彼氏のことを思い出した。野球部のピッチャー。男の俺から見ても彼はもてそうに見えた。彼は加奈子にずーっと話しっぱなしだった。彼は加奈子に話したいことがいくらでもあるらしかった。加奈子はずっと聞き役に回っていたが、たぶん彼の話には何の興味もなかったんだろうと思えた。加奈子はニコニコしながら、適当に相づちをうち、話を返したりしながらも、結局加奈子がやってたことというのは、相手に好きなだけ話させて楽しませてるだけに見えた。少なくとも俺の目にはそう見えた。

俺はあいつにはなりたくないなって思った。
あいつは加奈子に必要とされていない。
俺にはただ加奈子が池の鯉に餌を撒いているだけに見えた。
俺は加奈子に必要にされたい。俺が加奈子を必要なように。

話題がたくさんある日は弾丸のように話をして、まったくない日はただ黙っていて。加奈子に話題がある日は好きなだけしゃべらせて、俺が話したいことがあるときは加奈子も飽きずに聞いてくれて。大事な話だろうが、たわいもない話だろうが、ときにはものすごく盛り上がり、ときにはただ無言の時間を楽しむ。そんな関係になりたい。俺たちならそうなれるはずだ。そうだろ加奈子。俺は加奈子以外だとそうはなれない。1秒たりとも無駄なおしゃべりには耐えられない。

たっぷりと時間があればそんな関係になれるはずだ。ほんの短い時間しか会えないから、話題が無いとか合わないとかそんなことに苦労しなきゃいけない。もっともっとたくさん時間がほしい。

加奈子が欲しい。
加奈子と一緒に年を取りたい。
俺とずっといっしょにいてくれ。
二人で一緒に年を取ろう。
そう言いたいのに言えない。
言えばきっと「ううん。あなたとは一緒にいないわ。」と言われるだけだ。
「俺たち愛し合ってるんだよな」と言えば、「ううん、愛し合ってなんかいないわ。」と言われるだけだ。
ほんとうなのか。俺には信じられない。今日だって二人で楽しく過ごしたじゃないか。おまえはとても楽しそうだった。おまえもほんとは俺が好きなんだろう?ほんとは俺とずっといっしょにいたいんだろう。でもそれだけは決して彼女は白状しない。絶対に否定する。
俺は残念ながら超能力者じゃないから加奈子の本心を確かめる方法は俺にはない。とても悔しい。
とうとうチケットはすべてなくなった。俺と加奈子が一緒にいられる理由はもはやなくなった。
次にまたどこかへいこうって誘う?
違うんだ。
俺は加奈子とどこかにいきたいわけじゃない。
二人で一緒にいたいだけなんだ。
加奈子だって俺の気持ちはわかってるはずだ。そして俺と同じ気持ちなはずだ。どうすればいいんだろう。
加奈子が今日俺に言いたかったことはもう全部言ったみたいだ。
つまり、とりあえず、今夜ズーズルのサーバーが落ちるかどうか楽しみにしていろ。落ちたら私のことを信じろってことだ。加奈子が今日俺に会ったのはただそれを伝えるためだった。

加奈子はでも、俺とデートしてみたかったんだ。絶対そうに違いない。じゃなきゃこんな一日潰して俺と一緒に過ごすわけがない。でも加奈子は決してその本心を俺に打ち明けたりはしない。なんて屈折したやつだろう。

「もう帰ろうか。」先にそう言ったのは結局俺のほうだった。
「そうね。帰りましょうか。」

俺は一つだけ、どうでも良いことだが加奈子に言わなきゃいけないことがあったような気がした。
「そうだ。根岸がね。君に伝えてほしいことがあるって言ってたよ。」
「何?」
「学祭で売る電飾のデザインを考えてほしいんだってさ。」
「何だったっけそれ。」
「電脳研のチャリティーイベントさ。毎年学祭でやってるらしいぜ。」
「あー。なんかあったねー。そういうの。」
「だから電子工作とかはあいつらに全部任せときゃいいのさ。君は何か適当にデザインを考えてあげれば良い。」
「わたしにデザインのセンスなんてかけらもないわよ。」加奈子はけらけら笑った。
「いいんだよそれで。センスのある男子が考えたデザインよりも、加奈子が考えたデザインだっていうだけで、きっと男子どもがわらわらと買っていくよ。」
「そうかしら。」
「そういうもんだよ。」
「デザイナーが聞いたら怒るんじゃない?」
「そうかもな。ともかく、部室に顔出してやりなよ。君は、彼に罪滅ぼしする必要がある。そうだろ。」
「たしかにそうかもしれない。」

そこで話がとぎれた。最後の別れ際に話題が根岸のことしかないなんて。なんてつまらない男なんだろう俺は。

もう日が暮れ始めていた。
いつの間にか俺たちは浅草寺の境内を通り抜けた。
その先は、いつもの雑踏、日常の世界だ。
俺は今日、加奈子の手さえ握らなかった。
ましてや、境内の片隅で、二人だけで彼女と語らうことさえなかった。
恋人どうしならこのタイミングでキスでもして別れるんだろうな。
そう思いながら、俺は加奈子の顔をじっとみつめた。

「どうした、卓也。」
加奈子はにっこり笑った。
加奈子は絶対気づいたはずだ。
俺が加奈子にキスしたいなって思ったことを。
全部気づいてる。
そして俺から別れの言葉を言わせようとしている。
ずるいやつだ。

俺がなにか手出しをしようとしたら、たぶん加奈子は、大げさなそぶりで、「こらこら」とか「だめだめ」とか、「調子に乗りすぎ」とか、「いい加減にして」とか、「あなたってそんなことする人だったの」とか「私たちいつからそういう関係になったっけ」とか、まあ、そんなことを言って、せっかくの良いムードをぶち壊してしまう。

だから俺はいつも、何か言うよりは、この無言の時間を、大切な、残りわずかの時間を楽しむことにしている。

二天門を出て、東参道から馬道通りにさしかかる。
「じゃあね。」そう切り出したのはまたしても俺のほうだった。「それとも東雲まで歩いて帰る?」
「私このあと寄るところあるから。」
「あっそ。買い物?」
「うん。晩ご飯の用意。お母さんにたのまれた。」
「じゃ、ここで別れる?」
「そうね。じゃまた明日、部室で。」
「ああ。」

彼女が先に背を向けるのを待って、俺も歩きだす。歩きながら、彼女が振り返りやしないかと思って何度も振り返った。彼女は振り返らなかった。少なくとも俺が振り返ったときには振り返らなかった。そしてすぐに浅草の人混みの中にまぎれていった。

一人になった俺は隅田川へ向かった。

隅田川なんて、一人で見たくなんかない。加奈子と二人で手をつないでこの遊歩道を歩けたらどんなによかったか。どこまでもどこまでも、佃島や月島までも、東雲までだって、何時間かかるかしれないが、歩いて行きたかった。

俺んちは東雲に何十とある集合住宅の一つ。

加奈子の家も東雲あたりにあるはずだ。

俺たちはどちらも東雲東中学校に通っていたんだから。この学校にわざわざ越境して通う生徒がいるとは思えない。

俺は加奈子のストーカーではあるが、加奈子の家を突き止めようと思って加奈子の後を付けたりはしない。そんな卑怯なストーカーになるつもりはまったくない。だから俺はいまだに加奈子の家がどこにあるか知らない。

近所のドラッグストアやコンビニとか、あるいはファミレスなんかでばったり会ったことは今まで一度もない。

東雲に住んでるっていうと、有明のビッグサイトに近くて便利だな、と言われることがある。コミケに徹夜で並んだりするような連中から。だが俺は今まで一度もコミケに行ったことはない。興味が無いわけではないが、混雑してたり、入るのに何時間も並ばなきゃ行けないのはいやだ。加奈子もたぶんコミケにはさほど興味ないと思う。

歩いていこうか、途中で地下鉄に乗ろうか迷いつつ、俺は自宅へ向かって歩きながら、最近の加奈子の言動について、あらためて考えてみた。たぶん、あれは中二病の一種だ。中二病をちょっとこじらせただけだ。単なる妄想癖だ。良くある話だよ。ちょっとだけ妄想と現実の区別がつかなくなってる。ただそれだけ。なんとかハルヒのなんとかかんとかみたいなもんだよきっと。

彼女が本物のかぐや姫なはずがない。あんなこと言っといて明日になりゃけろっと忘れて、わたしそんなこと言ってたっけ、なんて言うに違いないんだ。うん。そうに違いない。

天女降臨 04