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個人授業

凍り付いたガレ場に足を取られながら、やっとのことで地峡を抜けると、ふいに眼下に視界が開け、ようやく春が我らを迎えてくれた。雪を戴く岩山は新緑に萌える草原に連なり、トネリコの枝にはそよ風が渡り、そこかしこ、口笛を吹いているのはクロウタドリ、或いはミソサザイだろうか。風は冷たいが心地良い陽気だ。王はこの眺めをお気に召しただろう、今日の宿営地はきっとこの辺りになろうと思っていたら、まもなく、進軍停止の角笛が渓谷にこだました。

 兵士らはやれやれと荷駄を下ろす。まだ日は高いが早春の夕闇はたちまちに迫り、やがて(こご)えるような(やま)(おろし)の風がヒンドゥークシュから吹き降りてくる。のんびりしている時間はない。皆が薪を集め火をおこし、幕舎を建てている合間に、私は木の間に敷布を張って日()けにし、テーブルと椅子を並べ文房具を置く。勉強を教えるのに適したところとは言えない。さっきからずっと彼女は、岩場の隙間に咲いている黄色いスミレソウや、青い空に飛ぶ白い蝶に気をとられている。

 彼女にギリシャ語を教えるよう、王は私にお命じになった。彼女はペルシャ語しか話さぬ家庭に育った。私もいまだにペルシャ語は苦手だ。だがこうして彼女と毎日顔を合わせて、もう三月(みつき)ほど暮らしただろうか。意思の疎通をしなくてはならない状況に追い込まれると、いつの間にか日常茶飯程度の会話は不思議とできるようになるものだ。せっかくの機会なので私も彼女にギリシャ語を教えながらペルシャ語に慣れていこうと思う。

 今日は彼女にギリシャ文字を教える。Α、Β、Γ、Δ、・・・。

「例えばあなたの名前は、Α、Μ、Α、Σ、・・・、ΤΡΙΕ。こう書きます。さあ今度はご自身で書いてみてください。」

「私の名はΑΜΑΣΤΡΙΕとるのか。奇妙な文字だなあ。まるで自分の名前ではないようだ。」

 覚え立てのギリシャ語と、地のペルシャ語が混じり合った妙ちくりんなしゃべり方だ。そういう私もへんてこなペルシャ語をしゃべっているのに違いない。

「じきにお慣れになりますよ、アマストリー様。」

「エウメネス先生。」彼女はガチョウの羽根ペンをインク壺に突き立て、腕組みをして私の方を向いた。「誰に聞けばよいかわからぬので、先生に相談相手になってもらいたいことがあるのだが。」

 妙にあらたまって、なにごとだろう。

「姫よ。私にお役に立てることでしょうか。」
「王はすでにマケドニアに妻子がおられると聞く。」
「ええ。さようですが、それがどうかしましたか。」
「妃も跡継ぎも、本国におられるのに王はなぜ、わが姉もまた、妻としたのであろうか。」

 私は、下ぶくれした丸っこい顔立ちの中年女バルシネと、彼女が産んだヘラクレスの顔を一瞬思い浮かべた。彼女と王の関係について、姫はお聞きになりたいわけではなかろうし、またマケドニア王家の込み入った事情について私から申し上げる必要もあるまい。マケドニア王家同様ハカーマン(アケメネス)家もまた、伝統的に王は幾人も妃を持つ。そのことを姫は知らぬわけではあるまい。

また、バルシネとヘラクレスは今マケドニア本国ではなく、バルシネの実家ロードス島にいるのだが、そんな細かなことをいちいち姫に説明する必要もあるまい。

なにはともあれ、今は話題を選ばず、彼女が気になることをどんどん尋ねてもらい、話してもらおう。それが自然と語学の勉強に役立つはずだ。

「それは、ラオクシュナ様が、お美しくもまた、ハカーマン家の嫡流だからでしょう。王はペルシャ王家の血筋を貴んでおられますから。」

 二百五十年ほど前、ザグロス山中に「ハカーマン(友情)」を称する男が現れ、その子らが武勇を(ふる)ってアーリア民族を()べ、アジアを統一し、ペルシャ帝国を興した。あのバルシネもまたどこかで、始祖ハカーマンの後胤(こういん)に連なっておるのに違いない。今日その血筋はヨーロッパからリュビア、インドに至るまで、何百という家系に分かれていた。

「私も姉のように誰かギリシャ人と結婚させられるのであろうか。」

 はにかんでいるのか、アマストリーはそう言って、ぎこちない笑みを浮かべた。彼女も姉ラオクシュナにひけをとらぬ、妖精のように透き通る肌の、美しい女だが、まだつぼみで、結婚するには早すぎる。

「おそらくそうなりましょう。王は長らく憎しみ、争ってきたギリシャ人とペルシャ人が、一日も早く宥和することをお望みですから。」
「気が重いのう。相手は誰なのかのう。やはり私の夫も妻を幾人も持つのだろうか。」
「さあ。そこまではなんともわかりません。」
「女も好きなだけ夫をもてれば良いのに。不公平じゃ。」
「それはその通りでございますな。」

どうやら姫は、まだお若いのに自分の結婚相手についてご心配になっておられるようだ。

「エウメネス先生もマケドニアの方でございますか。」

 今度は侍女のアパマが聞いた。アパマは王の命によって、アマストリーとラオクシュナに常日頃仕えている。結婚していておかしくない年だが、まだ独身である。何か、いつも憂え、怯えたような、沈鬱な表情をしている。

「いえ、私はギリシャ人ではありますが、マケドニア人ではありません。」
「マケドニア人もギリシャ人もギリシャ語を話すのですから、どちらもギリシャ人なのではないでしょうか。」
「おっしゃるとおり。ペルシャ帝国は人種のるつぼ、この天下に千差万別、万国の民がいる中で、顔立ちも話す言葉も、あなたがたから見て我らはほとんど同族に見えましょう。しかし、いろいろと違いもあります。ギリシャ人は非常に個人主義で自己中心的です。ペルシャ人やマケドニア人と違い、ギリシャでは男は妻を一人しか持ちません。女も一人の夫に一生添い遂げます。」

 再びアマストリーが訊く。「ほう。ではそなたにもギリシャに一人の妻がいるのか。」
「いえ、私は独身です。」
「なぜ結婚せぬ。」
「私のような貧乏書生には妻子を養うような甲斐性がございませんから、仕方ありませんな。」
「いや、確かにギリシャにいた頃、そなたはただの貧乏な秘書であったかもしれぬが、王の遠征に付き従い、王は世界の王となられ、またそなたも王の高官の一人なのだから、そろそろ結婚してもおかしくなかろう。」

 そういうアマストリーに私は向き直り、答える。

「それはそうですな。貧乏性なせいで、我がことながら、まるでぴんときませぬが。」
「きっとそなたも王にペルシャ女と結婚させられるのだろう。」
「そうかもしれませんなあ。」

 王はアパマをどうされるおつもりなのだろうか。まさか一生アマストリーの侍女のまま、結婚させぬおつもりであろうか。