加奈子はもちろん美人だ。
ものすごく希少価値がある。人類の至宝。ツタンカーメンくらい貴重だ。
美人というゲージがあるとすれば一番右端のレッドーゾーンの先、振り切れて枠からはみ出した外くらいにいる、お世辞でなく、正真正銘の美人だ。彼女を俺の彼女にできれば誰にだって自慢できる。一緒に連れて歩けばみんながうらやましがるだろう、というより、彼女にしたそのときから、誰かにとられやしないかとか、誰か他のやつを好きになりやしないかと不安で不安でしょうがなくなるに違いない。
加奈子がどんなに美人かみんなに証拠を見せたいのはやまやまだが彼女は俺には絶対写真を撮らせてくれない。他の男にはわりと気安く写真を撮らせたりツーショットで撮ったりもするくせに俺にはなぜか絶対撮らせない。ツーショットなんて論外だ。
写真なんて隠し撮りすりゃいいじゃないかって?
そりゃダメだ。そんなことしたら俺は加奈子のストーカーになってしまう。
隠し撮りしなくたって、勝手に撮っちゃえばわからないだろって?
ダメダメ。
俺と加奈子の関係はそんなんじゃないんだ。
正々堂々、彼女が撮らせてくれないんなら俺も絶対撮ったりしない。
もし俺がこそこそと加奈子のプライバシーを知ろうとしたら。できないことじゃないが、俺と彼女の関係はどんどん狂っていってしまい、収拾がつかなくなってしまう。だから俺はそんなことは絶対やらない。
所詮写真なんてものは、あれは死んだ絵だ。あんなもの何枚持ってたって何の役にもたたない。加奈子に会えず、彼女の写真をただ眺めているだけなんて悲しすぎる。
俺も加奈子の写真を人が撮ったスマホで見ることはある。たいていは加奈子の女友達らが集まって撮った写真だ。その中の加奈子はそんなにとびきりの美人ではない。普通の美人に成り下がっている。周りのごく普通の女たちに溶け込んでいる。加奈子はその中で少し濃い顔立ちで、美人ではあるが、俺の記憶にある加奈子の印象とはだいぶ違っている。
ほんとうは写真に写っている加奈子がほんものの加奈子で、俺の脳に記憶された加奈子は勝手に俺が妄想を膨らませたどこにも実在しない加奈子なのかもしれない。そんなふうに自分を疑ってみたこともある。そんなわきゃない。写真が嘘をついているのだ。写真に何ができるっていうんだ。しかし、もし俺のほうが間違っているとしても、それならそれで良いではないか。俺は俺の加奈子が好きなのであって写真に写った加奈子が好きなのではない。
そもそも加奈子はカメラを向けられて撮られるときには決まってキメ顔で写る。この表情が、いつもおんなじでつまんなくて気に入らない。加奈子にしてみればそれが自分が一番自慢できる顔のつもりかしれないが、俺にはそうではない。なんだかちょっと怖い顔に見える。外向けの、少し緊張して作った、自分を偽っている、自分を隠している顔?
写真じゃなくて動画だと割合加奈子の自然な表情が撮れてて俺は好きだ。動画というものは写真に比べれば作為が少ない。常にカメラを意識して顔を作ってられやしない。素の表情が一瞬見れることがある。それで少しだけ、寂しさが癒やされる自分が嫌だ。そう、加奈子ってこんな表情もするよねって改めて気づいて感心したりもする。そしてやはり実物の加奈子に会いたくなる。
写真なんてものは、あれは油絵の肖像画みたいなものでいくらでも撮り方しだいで撮りようがあるのだ。だからそこが写真家にとっては腕の見せ所なのだろう。しかし俺はそういう作った絵が嫌いだ。もし加奈子がグラビアアイドルかなんかになって、すごくうまい写真家が加奈子の写真を撮ればそりゃきれいだろうと思う。しかしそれは生の加奈子ではない。加奈子という素材に写真家の個性と技術が合わさったものだ。俺は加奈子にそういう夾雑物が介在するのが我慢できない。俺は加奈子を知りすぎている。だから加奈子ではない何かが混ざるとすぐ拒絶反応を起こしてしまう。他人は全然気にしないようなことでも。
加奈子は加奈子でなくてはならない。アイドルではなく俺の目の前にいる生身の人間でなくてはならない。だから俺も加奈子のストーカーになるわけにはいかない。俺がストーカーになれば加奈子はアイドルになってしまうのだから。アイドルなんてものは所詮金を払って鑑賞する商品に過ぎない。
俺が言ってることがわかるだろうか?
俺と加奈子の関係はまさに二人の間の関係性としか言いようのない何かだ。二人の関係の関係性とはまさに俺との加奈子の間の関係性性としか言いようのない何かだ。同語反復によってしか定義できない自己完結した、分類や分析を超越した、他者との比較を拒絶する何かだ。そうまさに加奈子は哲学であり禅だ。おんなじようなことをハイデッガーやヴィトゲンシュタインも言っている。
アイドルはアイドルでも、ネットごしや、テレビで見るアイドルと、直に舞台やイベントで見たり、サインしてもらったり、CD買って握手してもらったりするアイドルとは違うって、いやそんなありきたりな話をしてるんじゃないぜ。
写真というもの。動画というもの。アイドルというもの。それらすべての演出や加工。それらは俺と加奈子の関係性の間に入ってくる邪魔ものだ。
俺と加奈子の間に立ち入るものは何ものでも、無色透明な空気ですら俺には邪魔に感じる。いやちょっと言い過ぎたかな。空気くらいはあってもいい。ちょっとくらい塵が舞っててもいい。西日にキラキラ輝く塵ですら加奈子を美しく見せる。他山の石、以て玉を磨くべし。
男はみんな加奈子が好きになる。
俺もそうだった。そうだったはずだ。でも近頃は自分で自分が良くわからなくなってきた。俺は最初、加奈子が美人で愛嬌があるから好きになったはずだった。しかし今はどうか。俺はそんなミーハーなやつだろうか。違うと思うんだ。
最初は軽い気持ちで、うっかり、加奈子を好きになったが、今は違う。全然違うと思う。だんだんなぜ加奈子が好きなのか理由がわからないくらい彼女にのめりこんでいった、としか言いようがない。なにごともそうなのだろう。好きになりすぎるとなぜ好きなのかもはや言葉では説明できなくなる。ただある時期から俺は、加奈子のアブノーマルな、エキセントリックなところに惹かれるようになった。加奈子は明らかに普通の女ではない。ほかの誰にもない魅力なのだ。そう思ってしまうこと、そう思い込んでしまうということが、「ほんとうに好き」ということなのかもしれない。
とにかく俺は加奈子から離れられない。加奈子のいない世界なんて考えられない。何度も何度も冷静になろうとした。でもできない。できたと思ってもまた元通り。俺は加奈子のことばかり考えている。これがつまり、俺は加奈子が好きだってことなんだ。
「話?」3限と4限の休み時間、教室を移動する生徒らが傍らをビュンビュン通り過ぎていく。俺も次の授業に出なきゃならない。こんなところに立ち止まって話などしている場合じゃない。「ここで?今?」
「あなた、5限ヒマでしょ?」
「あ、ああ。」
「じゃ、5限にプレハブ教室に来て。」
「えっ。屋上の?」
「そうよ。」
「あんなとこで?」加奈子もあの教室のことを知っていたのは意外だった。「もしかして、二人きりで話さなきゃならないことでもあるのか。」
「まあ。そういうことね。」
「ふうん。」
平静を装ったが俺は内心穏やかではなかった。
もとより俺には下心があるわけで彼女が俺と二人きりで密談がしたいというからには俺もいろいろと期待しないわけにはいかない。しかしあまり期待しすぎてそのぶん失望するのもつらい。もしかしたら別れ話か何かかも知れないし。
加奈子は言いたいことだけいうとガヤガヤと騒がしい生徒らの群れに足早に紛れ込んでいった。
うちの高校の良いところは、秋葉原の電気街に至近だってことだけじゃない。
それとおんなじくらいにすばらしいのは、キャンパスが隅田川のほとりにあるってことなんだ。運動場のすぐ外が岸辺の遊歩道。地元民や浅草に観光にきた外国人なんかが思い思いに散歩してる。
本館の屋上に上ると眺望がすばらしい。
目の前の隅田川をしきりに水上バスが往来する。おもわず、
春のうららの 隅田川
のぼりくだりの ふな人が
櫂のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき
と滝廉太郎の歌を口ずさんでしまうくらい感動的な眺めだ。
左手には雲より高いスカイツリーのネオン。南には東京メトロポリスのビル群がまるで庵野秀明がこしらえたジオラマか何かのように並び、その中にはちんまりと建つ、赤い東京タワーを探し当てることもできる。そして目を西の空に転じれば、丹沢から奥多摩、秩父へ続く山塊の向こうに、うすぼんやりと富士山のシルエットも見える。空気が澄んだ冬晴れの早朝には、灰色に霞んだ北の地平線の向こうに、運良く筑波山が見えることもある。
そう。まさにこれが関東平野、The 関東平野だ。
俺はこの高校に入学して、校内をあちこち探険してみて、たちまちこの屋上が気に入って、以来ときどき景色を眺めにきてるんだ。
この屋上には一つだけ不思議なことがある。なんの変哲もないプレハブ小屋が一軒ぽつんと建っていて、中には黒板も教卓もあって、机も並んでいて、H601教室という看板も架かっているからここはちと狭いが教室には違いない。H601のHは本館という意味で、H201だと本館2階の1番教室というわけ。本館は地下1階地上5階建ての鉄筋コンクリート造りで、屋上もコンクリート張りで、その上に乗っかってるからH601なんだと思う。しかしながら高校案内や学内の教室一覧にはこの教室は記載されておらず、中には雑然と材木の端切れや段ボール箱、長机や棚、旋盤やドリルなどの工作機械が積まれていて、今では教室としては使われてなさそうだ。
そして屋上にはこのH601以外に教室はない。何のためにこの教室が作られ、そしてなぜ今では使われなくなったのか。さっぱりわからない。不用心にもたいていいつも鍵はかかっておらず生徒も出入り自由。しかしこの教室の存在自体が知られてないので、というよりも、一見資材倉庫か工事現場の事務所か何かにみえる、この存在感が非常に希薄な造りのせいで、ほとんど誰もこの建物のことを気にしてないらしい。誰かがここにいるのを見たことがない。いわばみんなからその存在を忘れられた教室というか。
ともかく今は次の教室に移動しなくちゃならないと思い歩き出そうとしたら後ろから「君、氷室さんと親しいのか?」と唐突に話しかけられた。
「うわっ。びっくりしたいきなり。何だって?」
「氷室加奈子だよ。今二人で話してただろ。」
根岸だ。
そうこいつだよこいつ。電脳研で唯一人、何不自由なくモールス信号だけで交信できるやつというのは。
若干16歳にしてありとあらゆるオタクの奥義を究めた魔道士。
我が校の制服はブレザーではなく、男はいわゆる昔ながらのまっ黒な詰め襟の学生服、女はセーラー服だが、男も女も作業服が、制服に準じる服装として認められている。うちの高校は純粋培養の理系だ。だから作業着もまた立派な正装なのだ。
そう、あれだよあれ。ワークマンの世界。
体育系の高校でジャージが制服代わりになっているようなものだ。
根岸は極端で、常に作業服を着ており、しかもご丁寧にネクタイまで締めてる。
もちろん彼も、学校では学校が指定した実習用作業着を着ているのだが、彼は私服の時も作業着を着ている。彼はそれを作業着とは言わない。「ジャンパー」という。「ジャンパー」。なにか懐かしい響きのする呼び名だ。
ワークマンだけではない。虎壱。山本寛斎。Z-Dragon。Jawin。冬は防寒仕様のパイロットジャケットに厚手のカーゴパンツ、夏はデニムのチャックジャンパーに綿混スラックスを合わせている。気分や季節に合わせてありとあらゆる着こなしをしている。けっこうおしゃれなやつだ。俺たちが普通に軍手をはめるときも根岸だけはよくわからないピッチピチの極彩色な、仮面ライダーみたいな手袋をしている。
胸ポケットにはシャーペンを兼ねた四色のフリクションペンとペン型のLEDライト、さらに左上腕のポケットにもご丁寧に予備の赤と黒の油性ボールペンを挿している。別にそういう格好をしていても本校では教師にとがめ立てされることはない。
彼の見た目は誰が見ても明和電機だが、彼が憧れているのは007に出てくるQだ。髪もテンパーでそれっぽい。もちろん度の強い眼鏡をかけている。腕にはオタク御用達、チタンケースでクリスタルガラスのG-Shock。
自称工業系メディアアーティスト。ニット帽かぶったハイパーメディアクリエイターみたいなやつらにかぶれてないだけ、まだましと言えるか。
彼が一番得意とするのはいわゆるマイクロマウス。ちっこい電動の車が自律的に迷路を探索してゴールにたどり着くっていう競技があるじゃん。アレだよアレ。ロボコンの一種だよな。こないだ浅草六区の空き地(イベント会場?)で開かれたなんとかというコンテストで彼は惜しくも準優勝で一位は社会人か誰かだったってこないだ電脳研で話題になってた。彼は俺と同じ電脳研っていうサークルのメンバーというだけでなくクラスも同じ。だが俺と彼の接点はそれだけで、共通の趣味も話題もなく、これまでめったに口もきかなかった。
「ああ。そりゃ話くらいはするさ。」
「頼みがあるんだ。」
「何?」
「文化祭で売る例のものなんだが、氷室さんにも手伝ってもらいたいんだ。」
「例のものって、ああ、電飾のこと?」
「そうさ。」
「おまえ、次たしか俺と同じ授業だっけ?時間が無い。歩きながら話そうぜ。」
うちの文化祭はだいたい11月中旬前後にある。今年はもう来週に迫っている。その文化祭で我が電脳研は、クリスマスシーズンに向けて、チャリティーと称して電飾を作って売るのだ。高校では何事もただ金儲けするわけにゃいかない。商売するにはいちいち大義名分が必要だ。
電飾ってのは、ほらアレだよ。クリスマス前になると家の壁とかベランダに吊されて夜ピカピカ光ってるアレ。で、売り上げの利益は赤い羽根共同募金に寄付することになっている。電脳研としては、電飾工作は、部活の一環としてLEDの半田付けやらマイコン制御の実習になるし、安くて品質が良いと来場者からも評判だし、おまけに工具代や部品代は売り上げから回収できてそのうえ恵まれない人に募金までできちゃう。なかなかよく考えられた企画ではなかろうか?
屋外用のイルミネーション作るのは危険なんじゃないかって?電気工事士の資格が要るんじゃないかって。
ま、そりゃそうなんだが、ちゃんとそういうの専用の電源やらケーブルやらコネクターやらコントローラーやらが売られているし、防水テープとかで対策してれば市販のものと変わらない安全なものは作れるんだよ。顧問の先生の指導もあるしね。
「やっぱこういうことは女子のセンスが必要だと思うんだよ。男ばっかでクリスマスの飾り作ってちゃあダサいデザインにしかならないじゃん。」
加奈子にそんな美的センスやデザインの素養なんてあるだろうか。わからん。
「そりゃそうだが、おまえが自分で氷室に頼めばいいじゃん。」
俺はそもそも電子工作には興味がないし、普段親しくもない、得体の知れないやつの取り次ぎをするってのはなんだか嫌だ。
「僕、彼女と口きいたことが一度もないんだ。」
「いや、でもそれ、同じ部活のメンバーなんだし、何の問題もないと思うが。良い機会だからおまえから加奈子に話しなよ。」
「じゃあ、俺がそう言っていたってことくらいは伝えてくれるかな。」
なんでわざわざそんな段取りを踏まなきゃならないんだ女子に声をかけるってだけで。
「いやいや。そういう問題ではなくてね。間に俺が入るといろいろややこしい問題が発生しかねないだろ。世の中はできるだけシンプルなほうが良くないか。俺はできるだけね、他人のことには関わらない主義なの。自分に関係のあることだけをやっていたい。」
「なんだそりゃ。関係はあるだろ。」
「いや、俺とおまえの間のことなら何でもいつでも相談に乗るよ。俺はしかしね、半田付けとかそういう手先の細かい作業は苦手なの。それはもうやってみて十分身にしみてわかってるわけ。俺にはそんな器用さや根気がない。電飾は電飾職人たちで作りゃいいじゃんか。だから、この件でおまえと何か一緒にやるってことは考えにくいわけさ。」
「ただ話を伝えてくれりゃいいだけなのに。なんでそんなに嫌がるんだ。何か問題でもあるのか。もしかして僕に協力したくないわけがある?君は、僕と関係を持ちたくない?僕を避けている?」
「いやだからさ、彼女はなにごとにつけてもどんなリアクションを返してくるか予測がつかない。どんなトラブルが発生するかわかんない。
いいかい。加奈子はたとえて言えばブラックホールか、重力崩壊を起こす寸前の中性子星みたいなものだ。その周りの時空は強い重力波のために歪み、近づくものはみな電子レンジよりも強烈な電磁波に被爆する。骨まで透き通り青い光がみえちゃう。俺たちは洗濯機に入れられたシーツのようにぐちゃぐちゃにされ、電子レンジに入れられてチンされた猫みたいに脳みそも目玉も内臓もみんなこんがりと焼かれてしまう。な?彼女に近づくものは誰も無事ではいられないんだよ。彼女の周りは時空がねじ曲がってんの。超時空要塞マクロスなんだよ。わかるだろ?」
「そのたとえ、わかんないよ、全然。」
「とにかくいろいろやっかいなんだよ。彼女と俺の関係は。だから関わりたくない。それだけ。ま、頑張れよ、男は誰でも女子に話しかけるのは苦手さ。こういうのも場数のうちだ。何。やってみりゃなんてことないさ。当たって砕けろ。
あと、俺は忠告したからな。君が加奈子に近づいて何か被害をこうむっても、まかり間違っておまえの日常が修羅の巷と化そうとも、俺は一切関知しない。」
「わかったよ。もう君には頼まない。」
根岸は俺にバカにされたと思ったのだろう。俺の存在を無視して歩き始めた。
教室へ入ると彼は最前列の席へ。俺はそんな教師の近くには座りたくないから、ずっと離れて、斜め後ろの机に着席した。
実際、俺は氷室加奈子のストーカーだ。
少なくとも客観的に俺のふだんの行動を他人が観察すれば、自然とそういう結論に導かれることになろう。
おっと待ってくれ。はやまるな。俺を通報しないでくれ。
俺と加奈子の関係をどう説明しよう。そうだな。俺はこれまで何度も人に俺と加奈子の関係を説明したい、相談に乗ってもらいたいと思いつつも、結局誰にも言わずにいたし、話したとしても誰にも理解できないだろう。
俺にはこれが、俺と加奈子との間で、長い時間をかけて最終的に落ち着いた愛の形だとしか言いようがない。
俺は、加奈子公認のストーカーなのだ。わかるかな。わからないだろうな。ストーカーだと言ったり。ストーカーじゃないと言ったり。
順番に説明していこう。
加奈子はいわゆる八方美人だ。誰からも好かれようとする。みんなからいつもちやほやされているし、本人ももちろんまんざらではない。そういう状況を絶対楽しんでいるんだ。加奈子はものおじせぬ子だ。誰彼となく話しかけ、女は彼女を好きになり、「彼女こそは私の親友だ」と思い込む。男もすぐに、加奈子は自分に気があるんじゃないかって勘違いする。加奈子はそこがダメだ。女どうしのことは俺にはわからん。勝手にすれば良い。が、好きでもない男にやさしくすることがどれほど罪深いことか、彼女はわかってない。いや、たぶんわかっちゃいるんだろうが、それでも、いろんな男に愛嬌を振りまかなくてはおれない罪な性格なのである。
俺には加奈子が他人を手玉に取る練習を重ねているようにも見える。何のため?さあ、しかしもしかすると彼女は大人になったときにその手練手管を駆使しなくてはならない定めのもとに生まれているのかもしれない。ありとあらゆる人間を自分の手下にするための訓練。子供の頃からそうやって人心を操る術を身につけておかねばならず、俺もまたそのモルモットの一人だったのかもしれない。ともかく俺も他の連中同様、まんまと加奈子に釣られた。その気にさせられた。
そう、彼女はいわばツンデレの真逆、いわばデレツンだ。彼女にはいつも彼氏がいるが、半年以上続いたのをみたことがない。男のほうがある一線を越えて彼女に迫ろうとすると彼女は態度を豹変して冷たくあしらうようになる。そこで諦めて引き下がれば良いが、男ってのはそう簡単に諦めがつく生き物じゃないから、中には彼女につきまとうようになる。それは正真正銘のストーカーである。俺の第一段階もまさにそれだった。
彼女は尻軽女だから次から次へと彼氏を変えているのか?そうとも思えない。移り気なのは確かだ。いろんな男に興味があるのだろう。でも、ある一定の距離を保ちつつ、周りに男をはべらせて、近づき過ぎたやつは、最初はやんわりと、最終的には完全にブロックしてる感じだ。
お姫様の周りには常に複数の男がつきまとっており、加奈子は彼らを互いに牽制させたりけしかけたり、時には互いに戦わせたりして、結局は誰の者にもならない。そういう絶妙のバランスの取り方を彼女はおそらく本能的に知っているのだろう。さもなくば絶え間ない努力でそんな絶妙のバランスを制御しているのだ。
みんなが遅かれ早かれ諦めていく。だが俺は違う。
俺だけが諦めが悪いのだろうか。そんなはずはない。
俺はどちらかといえば察しの良いほうだ。脈の無い女に時間をかけるほど無駄なことはない。ただ人を操るだけが目的の女を好きになるはずがない。アイドルに夢中になるやつの気が知れない。一方的に好きになって憧れているだけなんて何の意味がある。
加奈子は俺にとってマリア様ではない。アイドルではない。
加奈子と俺の関係は世間一般のアイドルとおっかけの関係とは根本的に違う。俺は彼女に脈があるのかないのか見極めがつかないからいつまでも諦められないのだ。
いやそこがストーカーのあさはかさだと人は言うだろう。自分で自分がわからなくなるほどのめり込んでいて、相手の迷惑も考えられなくなっている。それがストーカーな証拠だ。俺もそうなんじゃないかといつも思った。いつも疑った。バカほど自分がバカと気づかない。ただそれだけなんじゃないかって。何度思ったことか。早く加奈子を諦めないと俺も加奈子も不幸になってしまう。互いに傷つけあってしまう。
でもやっぱり何かが違うんだ。それは俺の勘違いではないはずだ。
ダメだ。やっぱりうまく説明できない。
世の中にはいろんなストーカーがいる。アイドルをおっかけたり、ネットに散らばってる情報からその子の個人情報を割り出して私生活を記録したりネットで暴露したりする。中には脅迫めいたことをしたり暴力沙汰になったりすることもある。痴情のもつれの果てに相手を殺したりするやつさえいる。そういうニュースを見るたび俺は憂鬱になる。俺もあいつらと同類なのだろうか?
そんなはずはない。
俺はごく正常な男のはずだ。
いくつか証拠を挙げさせてくれ。
加奈子は俺が無視すると怒る。俺に興味が無いか嫌いなら、無視されたほうがせいせいするはずだ。俺は別に彼女を無視してるわけではない。無視しようとしたことすらない。ただたまたま他のことで頭がいっぱいになっているだけなのだが、相手にしてほしいときにかまってやらないと怒る。
あるとき加奈子と喧嘩して、「俺がそんなに嫌いならはっきり嫌いだと言ってくれ。もう二度と話しかけないから」と言ってみたことがある。彼女は何も返事をしなかった。
加奈子は俺が肩を叩いたりするとすごく嫌がる。空気が凍るとはあのことだ。でもときどき、教室や廊下ですれ違いざまわざと俺にぶつかってくることがある。一度や二度ではない。ぶつかっても何も言わず通り過ぎ、また戻ってきてぶつかってきたりする。絶対わざとだ。あれはいったいなんなのだ。
加奈子は俺が他の女と楽しげに話をしていると必ず嫉妬するのだ。一度や二度では無い。「やだー。卓也がナンパしてるー。」とか「あら卓也、今日は彼女と同伴出勤?」とか。それも、俺に言ってるのではなく、周りに聞こえるようにわざと大声で言うのだ。
俺は別にナンパしてるのではない。ナンパする趣味もない。ただほんとうに、以前どこかで会ったことがあったような気がしたから、「いつかどこかでお会いしましたっけ」と聞いただけだ。加奈子はそれをナンパの常套句だと思ったのだ。いやいや加奈子だって俺が見知らぬ女をナンパするような男ではないことくらい知っている。それなのにことさらにあんなことを言う。
あるいはたまたま登校中に、そこそこ知り合いの女と出会い、その子と連れだって歩いてちょっと楽しげに話しているだけなのに、それをちょっと見ただけで加奈子は友人たちに、「みてみてほらー。卓也がだれそれさんと同伴出勤してるー。昨日は彼女のうちに泊まったのかしら?」とはやしたてるのだ。俺が加奈子以外の女とこれみよがしに道を歩くなんてことはあり得ないってことは加奈子にだってわかってるはずだ。
アレはどうみても嫉妬だ。嫉妬するということはつまり俺を独占したいのだろう。他の女と仲良くしているのを見るとムカムカイライラするのだろう。あと、ああやって騒ぎ立てて、相手の女を牽制して、俺にマーキングしているのだ。違うのか。
そういうことをするってことは、つまり俺を好きだということではないのか。少なくともつきまとわれて嫌な思いをしている男のことなど無視すればよいはずだ。彼女は明らかに俺の行動をいちいちチェックしている。
嫉妬でしか愛情を表現できないなんてことがあるんだろうか。
俺が加奈子一筋なことは加奈子だって知ってるはず。俺がたまたま他の女と話をしていたとしても、俺が加奈子以外の女を好きになるはずなんてないってわかってるはず。でも、万が一、俺が他の女を加奈子よりも好きになってしまったら。それを加奈子は恐れているようにみえる。そうならないよう俺に警告している。或いは。他の女が俺を好きにならないように警戒し妨害している。万が一だよ万が一。俺の勘違いでなければ。
加奈子はもちろん誰もが認める美少女だ。月から降りて来たかぐや姫のように。彼女は絶対の自信家でもある。彼女が自分という存在に自信を持ってないはずがない。それでも彼女は、俺が彼女以外の女には見向きもしないほど彼女を好きだってことを疑っているのだ。そんなに心配ならなぜもっと俺にやさしくして俺の気持ちをつなぎ止めようとしない?ああ、何をくどくどと同じことばかり言ってるんだろう俺は。
もし彼女が俺を嫌ってくれたり無視してくれれば俺は安心して彼女を諦められるだろう。でも彼女は俺にそうはさせてくれない。俺を縛っていたいように思える。気を持たせつつ気を持たせすぎないようにしているようにみえる。俺をキープしておきたいのは確かだ。でも自分から好きだとは絶対言わない。彼女こそ俺のストーカーではないのか?ほんとうに親密な彼氏ができて俺のことなど眼中にない態度を取られれば俺もさすがに彼女を諦めるはずだ。しかしそんな時はいつまで経ってもこない。俺は生殺しのままだ。
俺が好きならすなおに俺と付き合えよ。そうしたほうがお互いに楽だし楽しいに違いないのに?俺には彼女が理解できない。何かに遠慮しているのか?何か秘密があるのか。
そう、つまり、彼女は俺以外の男に対してはデレツンだが、俺に対してだけはツンデレなようにみえるのだ。
だから俺も未だに彼女のストーカーを続けている、というわけなのだ。しかたないだろう?誰か俺と同じ悩みを抱えた男がいるだろうか。いたら聞いてみたいもんだ。
そう。俺は加奈子という女を研究しているカナコロジストだ。すなわち加奈子に関する学問はカナコロジーというすべての学問から孤立した唯一無二の学問であると同時にすべての学問を総合した学問なのである。俺は何年間もこのカナコロジーという学問を追究してきてやっと一つの仮説を得た。つまり俺は加奈子のキープ男なのだろうということだ。長々としゃべった結論があまりにもありきたりで済まない。
加奈子が進学しようとしている高校が蔵前総合科学高等学校であろうということは前々から察知していた。本人から直接聞いたのではない。ただ、彼女が普段進路指導の教師や友人としゃべっている話を盗み聞きしているとやっぱり蔵前にいこうと考えているのは間違いなさそうだった。
それに、彼女なら絶対蔵前に行くだろうってことは容易に想像つくことでもあった。蔵前総合科学高校は他のいかなる高校にも勝るとも劣らぬバリバリ理系な高校なのだが、その立地とカリキュラムゆえに、一部の女子にも根強い人気があった。特にアキバが好きなコスプレ系女子にとって。
男子にとっては言わずもがな、蔵前総合科学高校はオタクの聖地である。蔵前から秋葉原は徒歩でだいたい20分。自転車なら5分程度もあれば行けてしまう。超至近距離だ。電気屋やパーツ屋などは一時期より少なくなったとはいえ、アキバはいまなお世界に誇る日本の電気街として健在。工具だろうが部品だろうが、授業やサークル活動に必要になったときすぐに買いにいける。なんという理想的な環境だろう。
「なんで卓也がここにいるの?キモっ。」
彼女は入学式の日、すべてを察しているぞという表情で俺にそう言った。
「別に加奈子をおっかけて俺もここを受験したわけじゃないぞ。俺はこの高校が好きで入学した。それだけさ。」
俺はわざとらしくしらをきった。
「気持ち悪っ。エーンガチョ。縁切った。」
そう言って俺を避け、嫌がるふりをしたのは最初だけで、それ以後特別俺を嫌うふうではない。ことさら無視するというのでもない。機嫌の良いときは向こうから話しかけてくることもある。
やっぱりだ。
ちょっとヒヤヒヤしたけど、たぶんこうなるだろうと俺も予測していた。
加奈子は内心、俺が同じ高校に進学してきてくれてうれしいのだ。もし加奈子が俺を毛嫌いしていて、大騒ぎして自分の親や俺の親や、教師や友人らに訴えたら、俺はとてもまずい状況に追い込まれただろう。退学もしくは転校ということもありえた。少なくとも俺は二度と加奈子と口も聞いてもらえなくなるだろう。
しかし、やっぱり加奈子は嫌がってはいない。
加奈子には加奈子の人間関係がある。
そこへ無理に割り込んでいこうとすると加奈子も反発するし、加奈子のとりまきやら親衛隊やらがでばってきてそいつらとトラブルをおこしてしまう。
俺は最初、加奈子がそれほどまで俺を嫌っていてそいつらをけしかけたのだと思った。俺は絶望した。加奈子がそんなに俺を嫌っていたなんて。なんで俺は今まで気づかなかったんだろうって。なんて馬鹿なことをしたんだろうって。
でもそういうわけではなかった。加奈子は世間体を気にしていたのだ。俺と加奈子がもめるとその話を聞いた自称加奈子の彼氏が暴走して俺を攻撃してくる。それは極めて困る。
でもそうしたトラブルはいつの間にか何もなかったことになっていて、加奈子の自称彼氏もいつの間にかいなくなっていて、結局俺と加奈子だけが取り残される。
俺もだんだんに学習してきたし、加奈子もたぶん俺の扱いに慣れてきたのだろう。俺と加奈子は表面上赤の他人。その建前さえ守っていれば加奈子は俺と自然に接してくれる。仕方ない。ともかく俺は今のところ、そういう関係でがまんするしかない。加奈子は別に俺を好きでも嫌いでもないのかもしれない。だが照れてるだけでほんとはすごく好かれているのかもしれない。加奈子本人もよくわかってないかよく考えたことがないのかもしれない。少なくとも俺以外にキープ男らしき男がいるようにもみえない。もしかすると将来何か進展があるかもしれない。加奈子の秘密もわかる時が来るかもしれない。それまでは自重して、加奈子のキープ男でありつづけなくては。
加奈子はとてもきまぐれだ。たまたま買ってあげたプレゼントがすごく気に入って、大喜びして、俺を惚れ直したんじゃないかと思える日もある。でもたいてい翌日会うと、まるきりしらけてしまっているんだ。気分の調整ってやつができないのだろうか。それとも何かの感情をいつも押し殺していて、それがときどき吹き出すのだろうか。
もしかすると彼女はほんとうにたいへんな秘密を抱えているのかもしれない。俺を巻き添えにしたくなくて、俺に迷惑かけたくなくて、でも俺のことが好きで、どうにもならないことに悩んでいるのかもしれない。俺の思い過ごしかもしれないが。
「加奈子はもうどこのサークルに入るか決めた?」
「サークルまでついてこないでね。」
「だからどのサークル?」
「電脳研。」
「へえ。」
電脳研。パソコンオタクらの巣窟だ。やっぱり俺と加奈子は気が合うなあ。
こうして俺は電脳研に入ることに決まった。
わざわざ蔵前総合科学高校に入学してくるような連中はみんな多かれ少なかれ電脳研に入る動機や資格くらいはもっているわけだ。問題はこの研究室との相性だろう。
研究室。そう。普通の部活だってなんとか研って、研究室を名乗っているが、実態はただのサークルに過ぎない。電脳研は違う。昔気質の、気骨のある研究室だ、と言えなくもない。
もっと軟派なサークルならいくらでもあるから、多くの部員は入ってすぐにやめるか、幽霊部員になってしまう。俺もその一人だ。俺は今流行りの blender や unity がやりたいんだ。蔵前にきて電脳研に入れば blender 好き、unity 好きが、同好の士がいくらでもいるだろうと俺は思った。ところがたった一人もいなかった。驚くべきことにたった一人も。
blender や unity をやってるそのものズバリのサークルはほかにある。その名もそのまんま、CG研という。ほんとなら俺はCG研に入るべきだ。CG研はすばらしい。LEDでピカピカ光るゲーミングPCにゲーミングキーボード、ピカピカ光るゲーミングスピーカー。ピカピカ光るマウスにヘッドセット。それらが所狭しと部室の中に並んでいる。至福だ。至福の空間だ。俺もあそこに入って活動したい。しかし俺は加奈子のおっかけなので、電脳研に入るのはマストだ。そこでCG研と電脳研を掛け持ちしたいと願い出たのだが却下された。電脳研は正規の部活でCG研は高校非公認の同好会。我が校の生徒は誰でもどこか正規の部活に一つだけ所属しなきゃいけない。でも、非正規の同好会と掛け持ちしてはいけない、なんて規則があるわけでないのだがCG研と電脳研はなぜかものすごく仲が悪く、掛け持ちは許されないっていうんだ。
我が電脳研の歴史は古い。あまりに古すぎて気が狂いそうだ。生きた化石みたいなもんだ。もともとは戦後まもなく、この高校の、というより秋葉原の歴史とともに始まった無線研と呼ばれるサークルだった。そう、いわゆるアマチュア無線ってやつだ。話には聞いたことがあったがまだそんなことをやってる連中がいるとは驚きだった。
俺も良くは知らないのだが、日本放送協会、つまりNHKが出来たと同じころに秋葉原に廣瀬無線電機という会社ができた。この店が核となってその後さまざまな事情で、戦後焼け野原になった秋葉原の闇市に電気部品の露天商が集まるようになり、GHQの露店撤廃令が出てラジオセンターとかラジオガーデンとかラジオデパートみたいな、テレビが流行る前で最先端の電気技術といえば当時ラジオだったわけだが、そういうパーツ屋の寄り合い所帯の仲見世市場みたいなのが高架下にできて、我が無線研もその頃できた。
秋葉原は世界に冠たる電気街に成長していき我が蔵前も無線研も秋葉とともに発展してきた。
とにかくOBがすごい。
『バック・トウ・ザ・フューチャー』を知ってるだろう。
あの映画に出てくるビデオカメラはJVC。
ラジコンはfutaba。
カセットテープレコーダーは AIWA。
ラジオ付デジタル時計は Panasonic。
腕時計は CASIO。
ピックアップトラックは TOYOTA。
ストップウォッチは SEIKO と CITIZEN。
当時電機産業は日本が世界を席巻していた。その頃高校生や大学生、あるいは社会にでてエンジニアになった人たちが我が高校のOBたちだ。電子立国日本をしょって立った人たち。だから電脳研という前世紀の遺物がこの高校には残り得たのだ。
今や日本はみるかげもなく落ちぶれた。嘆かわしいことではないか。
電脳研部員の半数は子供の頃からアマチュア無線をやっていて、つまりすでに無線技士の免許を持っていて、高校生活でアマチュア無線をおなかいっぱい楽しむためにわざわざこの高校を受験したっていうやつさえいる始末だ。アマチュア無線技士免許には年齢制限が無い。この免許には1級から4級まであって、4級が一番簡単で、使える電波も弱いのだが、その4級の免許をすでに7歳とか8歳で取って(すごい英才教育!きっと親がマニアなのだ)、高校生のうちに1級まで取っちゃう猛者がこの電脳研にはザラにいるのだ。いや、昔はザラにいたが、今はそれほどでもない。というか急速に廃れつつあるところだ。でも一部のコアな天然記念物みたいな連中が、世の中の必然的な流れに逆らってこのサークルに無線を延命させようとしている。当然、いつ死んでもおかしくない病人みたいなものなので、延命装置を外せばすぐ死んでしまう。それがOBたちには我慢ならないらしい。
屋上にはでっかい八木アンテナを建てて毎日ケーブルを八の字巻きにしている。八の字巻きだよ八の字巻き。鉢巻きと勘違いしないでくれ。恵方巻きでもカッパ巻きでもない。八の字巻き。
部室奥のかなりのスペースを占めているのは無線機で、古いやつから新しいやつまでありとあらゆるものが、机の上やスチールキャビネットの中にわんさと積まれている。ものすごいアナログ感。ときどき秋葉のジャンク屋が骨董品を買いあさりに来るくらいここのコレクションはすごい。そのうえ『トラ技(トランジスタ技術)』『CQ Ham Radio』などのバックナンバーがずらりと揃っていて、キャビネットの上を占領している。
おそらく昔はこの部屋全部に無線関係の機材が並べてあったのだと思うが、ところが今はその一画をマックが占拠している。
マック!
ああ俺の天敵マック。
マック、わかるよね、あれだよあれ。アップルのマッキントッシュ。あの、スティーブジョブズ信者が使う、あのしろっちくて薄いけどずっしり重い、なんだらわかんないおしゃれ感を醸し出しているだけで、コストパフォーマンスでは決してWindowsには太刀打ちできないあのPCのことよ!
マックとゲーミングPCほど両極端なものはあるまい。
なにゆえにマックはあんなぺらっぺらな叩き応えのないキーボードにしたのだろうか。なんであんな米粒が一個ぽつんと大福餅に乗っかってるようなマウスにしたんだろうか。気が狂いそうだ。
虹色に波打つLEDのバックライトに照らされたメカニカルキーボード。
アレを、エンターキーだろうがスペースキーだろうがおもいっきし、ターンっとぶったたかなきゃキーボードを打ってるって気にならないだろ?
ああそして。サウンドに合わせてやはり色を変えるゲーミングスピーカー。PCの筐体はシースルーで中にはやはりLEDで光るGPU。
なんてすてきなんでしょう。
マックユーザーはLEDが嫌いなのではない。彼らはむしろLEDが俺たち以上に好きなのだ。彼らはMac Book Air のキーボードにバックライトが導入されると、ああありがたいジョブズ様のお恵みだと諸手を挙げて歓迎し、しばらくしてバックライトが廃止されると切り花のあじさいのようにしぼんだ。ジョブズ様は彼の信者たちの反応をみて憐れみを抱き、彼らのためにバックライトを復活させた。マックユーザーたちは、ああなんて美しい機能美だろう、と賛美した。
彼らはゲーミングキーボードを愛用する俺たちに嫉妬してるに違いない。でもやつらはアップル信者なんで、俺たちのゲーミングPCなんて何の興味もないってふりをしてる。俺たちが愛してやまないパソコンやキーボードやマウスを、クリスマスパソコンとかクリスマスキーボードとかクリスマスマウスなんて言ってバカにしさえする。
彼らは俺たち以上にピカピカ光る光り物が好きなのさ。だけど教祖様の聖遺物に口出しすることは許されない。だから連中は Arduino とか Raspberry Pi とかが大好きなんだ。いわゆるマイコンだなマイコン。彼らは Arduino や Raspberry Pi をマックにつないで毎日LEDを光らせている。せっせと秋葉原通いして。ありゃいったいなんのつもりだ。何が楽しいのか俺にはさっぱりわからない。
電脳研にはWindows機もあるにはあるが1台きり。しかもどんくさいビジネス仕様の国産で、Windows 7からWindows10にアップグレードしてさらに何度かクリーンインストールして、いまだに生きているのが不思議なくらいにくたびれたロートルマシンだ。このWindows11の時代にだよ。電源を入れてマウスがなめらかに動き始めるまでに10分は待たされる。もちろんGPUなんかささっちゃいない。
そう。電脳研の歴史を遡ればもとはアマチュア無線しかやってなかったんだが、マイコンブームが到来して以来、マイコンもやるようになった。
最初はワンボードマイコンとかマイクロマウスだった。
それがマックユーザーにつけいる隙を与えた。マックユーザーはロボコンなんかを口実にしてじわじわと無線研に侵食していき、アマチュア無線なんてもう古い、これからはマイコンの時代だなどと主張して、とうとうサークル名を電脳研に変えさせてしまった。
それから今度はインターネットが流行りだして、アマチュア無線はもう古い、これからはインターネットの時代だってことになった。
そりゃそうだろ。当然そうならなきゃ嘘だ。
しかしそうはならなかった。アマチュア無線でパケット通信やろうぜっていうそういう斜め上な方向へ電脳研は進化した。何を言ってるかわからないと思うがわからなくて良いです。なにしろ俺も全然1ミリも興味ないし説明したいとも思わないので興味ある人はネットでググってみてください。
それで、世の中がインターネット全盛時代になろうというときにこの電脳研ではその時代の流れに逆行して恐るべき超保守的な規約が作られたのだ。
電脳研入部希望者は無線技士免許をすでに持っているか、高校1年生のうちに免許を取得すること。
なんなんだよそりゃ。
なんちゅう時代錯誤なサークルだ。
そのころだったらしい、CG研が電脳研から分離して生まれたのは。
ま、しかし俺は結局その条件を飲んで入部した。いきなり俺は無線従事者免許受験のため、教科書を買って勉強を始めるはめになった。
加奈子は?彼女はとっくに4級免許を取得していた。入学前に。なぜ?本気で無線に興味があるんだろうか。
加奈子から呼び出しをくらった後、俺はぼんやりと4限の授業を受けながら考えた。
我が校は比較的自由に自分の好きな単位を選択して履修できるようになっているから、人によっては週のうちに午後から来たり、あるいは、午前中だけ授業を入れて午後はフリーっていう曜日もある。俺は今日、4限で終わりで、昼は適当に外食して、アキバや神保町当たりをぶらぶらして帰宅するつもりだった。
ところが加奈子が5限にプレハブ教室に来いという。
5限というのはつまり午後一のコマだが。
それなら購買で焼きそばパンと牛乳でも買って、昼休みからプレハブ教室に言って、昼飯食べながら加奈子を待つか、という気になった。
加奈子は今日俺が5限授業を入れていないことを知っていた。つまり俺の時間割を把握しているってことだ。どうやって調べたか知らないが、ずいぶんと念の入ったことだ。
購買は嫌いだ。いつも混んでいて。みんな殺気立っている。俺が連中を遠巻きに眺めてひとけが失せるのを待っているうちに、ほとんどめぼしい食べ物は売り切れてしまった。だがなぜか奇跡的に俺が好物の焼きそばパンが一個だけ残っていた。俺は喜々としてズボンのポケットからバラ銭を取り出し購買のおばちゃんに330円を渡して焼きそばパンと牛乳、ついでにコロッケパンを買った。
屋上に出るとみんな思い思いに昼飯にかぶりつき、ストローをすすっている。俺はそいつらの中を通り過ぎてまっすぐプレハブ小屋に向かい、ドアを開ける。やっぱり誰もいない、と思ったら、加奈子が部屋の片隅にもう来ていて、椅子に足を組み、腕組みまでして座っていた。
「早いな。飯を食わせてもらうぜ。」
「どうぞ。」
「おまえは食ったのか?」
「ええ。」
「じゃ遠慮無く。」
「あなた、All JA コンテストの準備はできてるの?」
どこかで聞いたような話だ。「オールジェー?」
「All JA よ。来年の4月そうそうに開かれるアマチュア無線のコンテスト。今年もやったでしょ。」
「えーと?」
「屋上にアンテナ立てて、この教室に無線機並べて夜の9時から翌日の夜9時まで、24時間やったじゃない。」
えっ。24時間?学校に合宿か。
「そうだったっけ?」
「そうだったっけ、じゃないでしょ。まったくあなたって人は。幽霊部員なのにもほどがあるわ。来年はあなたもサボらずに必ず参加するのよ。」
そうか。そうだったのか。この部屋は、すくなくともわが電脳研が、年に一度はコンテストに使う部屋だったのだ。
もしかするとこの部屋はかつて、無線研のためにわざわざ作られたのかもしれない。昔はしょっちゅう、毎週のようにアマチュア無線のコンテストが行われていた時代があって、いや、今でもこの、でかくて丸い地球の上では、世界のどこかではなにかしらコンテストが開催されているんだが、昔はもっとアマチュア無線が盛んだった時代があって、その頃はまだアマチュア無線にも実用的な意味があって、うちの高校はその活動にけっこう本腰入れてて、OBの寄付などを募ったりして、このプレハブ小屋を建てた。
しかしその後、無線の実用性はなくなり、この部屋も忘れ去られた。
そういうことなのではなかろうか。
「あなたも、どんなに遅くとも、All JA コンテストまでに免許を取らないと、電脳研を除籍になっちゃうわよ。」
「わかってるよ。なんだよ。せっかく俺を呼び出しておいて、俺に話って、アマチュア無線のことかい。」
「ええ。それも関係してるわね。」
「他に本題があるのか。」
「あるわ。」
「なら、もったいぶらずに言えよ。」
「そうね。どういう順番で話していいか、迷うわ。でも結論から先に言ってしまうと、私は、実は地球人じゃないの。」
「へ?」
「私は、星の世界から来た、かぐや姫なの。」
「なんだそれ。ははあ。わかったぞ。またあれだな。おまえが好きなコスプレの話してんだろ。」
加奈子が急にコスプレに凝りだしたのは、そうあれはたしか中2の頃だった。俺たちはその頃すでに疎遠になっていた。絶交状態で口もきかなかったから、遠巻きに見ているだけだったが、よせば良いのに加奈子はまたしても、罪深いことに、世の中の男どもをその若い色香で狂わせて、地下アイドル一歩手前の活動に手を染めるようになっていたのだ。
「まさか、かぐや姫っていうフォークグループのボーカルやってるわけじゃあるまい?
今度の冬のコミケでかぐや姫のコスプレやるから見に来いって?
それとも、おまえがアキバでバイトしてるメイド喫茶のイベントのことか?」
「違うのよ。ほんとのことなの。信じられないだろうけど。」
「おまえは星の世界から来たって言ったな。かぐや姫は月に帰ったんじゃなかったっけ。」
「それは、あなたたちの祖先にはそういうふうに思えたというだけのこと。かぐや姫という名前にしても、私が自分で名乗ったのではなく、みんなが勝手に私をそんなふうに呼んだのよ。」
「待て待て。つまりおまえは、比喩でもなく、掛け値なし、正味に、昔地球に来たかぐや姫本人だって言うのか。」
「そう。私はまた地球に戻ってきた。」
俺は面白いので、しばらく加奈子の狂言に付き合ってやることにした。
ふむ。俺とおまえが初めて会ったのは。」
「江東区立東雲東中学校1年2組。」
「そう。しののめひがし中学校。右から読んでも東雲東。左から読んでも東雲東。俺は生まれも育ちも東雲。そしておまえはたまたま中学に上がる時期に東雲に越してきた。」
「そうだったわね。」
「俺とおまえはあのとき12か13才。」
「ええ。」
「でもかぐや姫ってざっと1000年くらい前の人で、しかも大人の女だろ。」
「ううん。かぐや姫は大人じゃないわ。まだ子供だったの。でもあの頃の日本では早婚が普通だったでしょ、当時12才だった私に、求婚者がうじゃうじゃ寄ってきたのよ。」
「ほんとかよ。」
「ほんとよ。たとえば中宮定子。」
「チューグーテイシ?誰だっけそれ。」
「『枕草子』はわかる?」
「清少納言ね。」
「うん。その清少納言が仕えた、一条天皇の后が中宮定子。」
「そうだったかもしれない。」
「その定子さんが、髪上げをして、裳着を着たのがちょうど12才。入内したのが13才の時だったわ。」
「待て、カミアゲとかモギってなんだよ。」
「めんどくさいから説明は省略するけど要するに男子の元服に相当する、当時、女子にとって慣例だった成人儀礼よ。子供が着る服をやめて大人が着る服を着て、子供の髪型をやめて大人の髪型にする。」
「へーえ。つまり成人式みたいなもんか。」
「ま、そゆこと。ともかく、あのころまだ10才になったばかりの私にいろんな男どもが私に言い寄ってきたってわけ。」
「すげーロリコンってことか。」
「さあ。あのころそんな概念があったか知らないけど。」
「えーっと。仮にね、おまえの言うことがほんとうだとしよう。つまり、かぐや姫は当時12才だったが、おまえは言い寄る男どもを振り切って星の世界に帰って行ったわけだな。だが、その12才のおまえがなぜ1000年後の東雲に現れたんだ?」
「正確に言えば1548年前のことだけどね。当時日本は古墳時代だった。『古事記』にもわたしの名前が残ってる。迦具夜比売命ってね。」
「1000年前でも1548年前でも、そんな細かいことはおいといて、なぜそんなに時間が経ったのちの世におまえが現れなきゃいけないんだ。」
「私の星は地球から300光年彼方にあるの。私はそこへ行ってまた帰ってきた。時空を超えてね。私が旅行した時間は一瞬だったけど、その間に地球では1500年あまりがあっという間に経過してたというわけよ。詳しい理論は省略するけど。」
「相対性理論?」
「まあそんなところよ。浦島太郎っていたでしょ。あと、天の羽衣伝説。あれも全部実話なのよ。私たちの仲間。その伝承がいろんなふうに改変されて、おとぎ話として今に伝わったの。」
「おまえたちの仲間って?」
「評議員。」
「なんだヒョウギインって。」
「もちょっと正式に言えば、銀河連邦評議会議員。」
「銀河連邦?ふーん。で、おまえのふるさとの星の名は?」
「あなたたち地球人にはまだ見つかってない、地球外惑星。」
加奈子が、なんだかずいぶん込み入った理屈をこね始めたぞ。
「で。そのかぐや姫はなんでまた現代に舞い戻ってきたんだ?彼女は地球の男に飽きて愛想尽かして帰っちゃったんじゃなかったの?で、そのかぐや姫が俺に一体何の用があって、今日俺を呼び出したんだい。」
「待って、卓也。慌てないで。順番に話してあげるから。私たちは用があって地球に来て、そして一度母星に帰って、連邦評議会に現状を報告して、この地球のことが大問題になって、そのため、もう一度この地球にやってきた。そう、ちょっとした大仕事をするためにね。」
「連邦なんとかの特命を帯びて?」
「うん。地球はもうずっと昔から、そう、1億年以上前から、銀河評議会によって監視対象になっていた。銀河評議会は定期的に地球に調査隊を派遣して、生命の進化を観察し、サンプルを収集していた。50万年前に来た調査隊は、私たち共通の祖先を連れ帰って、いくつかの星に殖民させた。私の実家にあたる星はその中の一つ。」
「その星って、地球に似ているのか?」
「正確に言えば、地球に似せてテラフォーミングされた星ね。
銀河系の中で、生物が生息可能な惑星は限られている。とても貴重なの。実際に生命を宿した星はなおさら。だから、そんな星が何かの理由で、例えば巨大隕石が衝突したりして破壊されて、生命が絶滅しちゃったときの、バックアップとして、人工的に別の星にそっくりそのまま真似て生態系を作るのよ。地球もまたその保護対象になってたというわけ。」
「それも銀河連邦評議会の仕事か。」
「そうよ。だから私の母星では、地球とほぼ同じ生態系が保たれている。大きなシロナガスクジラから一番小さなウィルスまで全部そっくりそのままコピーしてある。」
「有害な細菌やウィルスまで?わざわざ?」
「そうある程度は。そうしないと生態系が成立しない。」
「ノアの箱舟みたいな話だな。」
「そうね。ただし私たちは、地球上では絶滅した種も保存している。だからすでに、私たちの星は地球とは、厳密に言えば同じ生態系ではない。」
「例えば?ティラノサウルスとかマンモスとかも?」
「ええ。私たちの星にはまだいるわよ。」
「へえ。そりゃすごいや。じゃ、アロマノカリスは?」
「アロマノカリス。約五億年前に滅んだ、カンブリア紀の生き物ね。残念ながら、そんな昔の地球は、私たちにはノーマークだった。種を採取していないわ。」
ときどきいるんだよね、こういう子が。自分の中でどんどん妄想を膨らませて、壮大で緻密な世界観を構築していく。
「つまり、君は地球人ではないが、俺たちと同じ種、同じ人類だって言いたいわけだな。」
「うーん。まあその通り。同じ種よ。でも私の場合ちょっと事情は特殊よね。なにしろ生まれた直後からほとんどずっと地球に住んでたわけだから。だから私も、地球人といえば地球人よね。」
「そりゃそうだ。ただし、最初の12年間は1500年前の地球に。残り3年間は現代の地球に。てことで合ってる?」
「だいたい合ってるわ。で、私たちとあなたたちでは、50万年も別々に暮らしてきたから、「人種」としては大きな隔たりができてしまっていたの。それはそれで、種の多様性という意味では良いことだったのよ。いろんな亜種ができて、さらに長い年月には新しい種に分かれていく。種分化は生態系の多様性のため、とても大事なことよ。
だけど、5万年前、私たちは大きな過ちを犯してしまった。」
「どんな。」
「50万年前に私たちが採取した人類は、私たちの祖先だけではなかった。」
「というと?」
「ネアンデルタール人も同じように採取して、私たちの星に生息させた。」
「てことは、君たちの星には、人類のほかに、ネアンデルタール人も住んでるってことなの?」
「そう。ネアンデルタール人も人類、ホモ・サピエンスの亜種、「ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス」であることには違いない。私たちは「ホモ・サピエンス・サピエンス」というホモ・サピエンスの亜種。クロマニヨン人とも言うわね、そういや。だけど、ややこしいから、とりあえず、ネアンデルタール人はネアンデルタール人、ホモ・サピエンス・サピエンスはホモ・サピエンスってことにしとくわね。」
「はあ。」
「評議会は私たちホモ・サピエンスを里帰りさせた。50万年間、評議会の保護観察の下で知能が十分に発達した私たちに、地球の定期観測を任せたわけよ。もうこれからは、自分たちの種のことは自分たちで管理しなさいってね。
ところがその5万年前に地球を訪れた調査隊のメンバーが、地球のホモ・サピエンス、つまり、あなたがたが言うところの、ホモ・サピエンス・イダルトゥという亜種と交配して、ホモ・サピエンス・サピエンスという新種を生み出してしまったの。」
「ますます話がこんがらがってきたな。つまり君たちは、50万年前に分かれて独自に分化した人類の亜種であり、俺たちクロマニヨン人ことホモ・サピエンス・サピエンスは、地球にそのまま残っていた亜種と、君たちとが混血して生まれた人種だということか。」
「そう。ホモ・サピエンス・サピエンスは、自然に、ホモ・サピエンス・イダルトゥから分化した亜種ではないってこと。人工的に生まれた亜種。」
「でも、それのどこが大きな過ちなんだ。」
「ちょっと待って。卓也。」
「なんだ。」
加奈子はいきなり立ち上がり、つかつかと俺の前を素通りして、勢いよくがらりとドアを開けた。そこには一人、作業着を着て卑屈に顔をゆがめた男が立っていた。
「おまえ。もしかして立ち聞きしてたのか。」
「入ってきなさいよ、根岸君。」
「そうか。おまえ、俺と加奈子が廊下で話したことを聞いていて、俺と加奈子が会うところとをのぞき見しようと思ったんだろう。」
「いや、俺はただたまたま外を通りがかっただけだ。」
「嘘つけ。しらばっくれるな。」
俺と根岸が言い争ってるすきに加奈子はそっと根岸の背後に回り込んで、ガーゼのような布に何やらスプレーで液体を拭きかけて、それで根岸の口と鼻を塞いだ。
「何をする。」
根岸は振り返り加奈子を凝視したが、やがてぐにゃりと崩れ落ちた。俺は慌てて彼がどこかに頭を打たないように彼の体を支えた。
「おい、加奈子。」
おまえちょっとやり過ぎなんじゃないか、と言おうとするのを加奈子がさえぎって
「こういうことはよくあるのよ。短期記憶が長期記憶に転送される前に消去する薬を嗅がせただけ。すぐに目が覚めて、本人はしばらく寝ていたと思うだけのことよ。昔はほったらかしててもなんとかうやむやになったけど、今だとネットに書き込まれでもしたら世界中に拡散して簡単に証拠隠滅できなくなっちゃう。あら、もうこんな時間。わたしこの後、補習があるのよ。話の続きはまた今度で良い?」
「えっ。良いけど。」
「あと、わかってると思うけど、私が話したことは決して人に話してはだめよ。もしあなたが誰かに話したら、その人はこの根岸君と同じ目にあうことになるから。良いわね。」
「わかったよ。」
「ねえ、卓也。今度の日曜日、秋葉か浅草で会えないかな。」
「デート?」
俺は加奈子とまだそんなことはしたこともなかった。
「どっちが良い?あなたが決めて良いわ。秋葉か浅草。」
「なんだよその微妙な二択。」
「近場で良いでしょ。早く決めなさいよ。」
「じゃあ、浅草。」
「そう。浅草なら、そうね、定番だけど雷門待ち合わせで良い?午後一で。」
「OK。」
「じゃ。日曜日。」
そういうと、加奈子は俺と、寝ている根岸を残してH601教室を出ていった。
根岸はすぐに目を覚ました。
「どうした。貧血か?」
俺は笑ってごまかした。
「ここはどこだ。」
「どこって、H601教室だよ。」
「ああ。そうか。」
「具合悪いのか、根岸。顔色悪いぞ、保健室につれていこうか。」
「良いよそんなことしなくても。」
「ふうん。ならいいけど。」
「俺、何しにここにきたんだっけ?」
「俺に聞くなよ。俺に会いにきたんじゃないのか。」
「おまえはなぜここにいる。」
「俺は、加奈子とここで待ち合わせしてたんだ。あいつが俺に話があるって。でも加奈子はもう用事があるって帰っちゃったけど。」
「そうだ。そうだったかもしれない。君と氷室さんに会いに。何か大事な話があって。」
「電飾のことか?」
「ああ。そうだったかも。
君、氷室さんにはもう電飾のこと話したか?文化祭は来週なんだ。メインの飾りが欲しいんだよ。アイディアさえ出してくれりゃ後は僕たちが作るからさ。話しといてくれよ。」
「わかったよ。こんどまた会うことになったから、そのときにな。」
「今、何時だ?」根岸は自分の腕時計を見た。「もう2時か。ああもう部活に行かなきゃ。」
根岸はふらふらと立ち上がり、彼もまたH601教室を去っていった。
