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バルシネ

王はここダマスクで軍を小休止することにした。私は一人で夕涼みがてらに、遠く西の山並みから引かれた清新な水を湛える用水路(カナート)を辿って、丘の小道をのぼってみた。

西には白雪を戴き、緑の裾野を広げた山嶺。東には日々その姿を変える、大海の荒波のような砂丘。レバノン山脈がアラビア砂漠に埋もれゆく途中にある町、水と砂、それら相容れぬ二者がたまさかに同居するオアシス、それがダマスクだ。殷賑たる城闕の外に広がる雄大な自然。そしてこの強烈な日光と乾燥して澄んだ空気。マケドニアやギリシャでは決して見られない風土だ。

私は一目でこの日の光に満ちあふれた南国の町を気に入った。

「あら、あんたエウメネスじゃないの。お久しぶりね。」

私はふいに声をかけられた。ギリシャ語でもペルシャ語でもない。シリア辺りでよく話されるフェニキア語でもアラム語でもない。確かに我が故郷、フリュギアの言葉だった。

こんなところでフリュギア語でいきなり呼びかけられて、私は面食らった。振り返ると立派な、王族の館であろうか、巡らした囲いで見えないが、私を呼んだ者はその石造りの建物の中にいるらしい。

私は石段を降り、歩み寄る。

(なつめ)椰子(やし)の木陰に午睡(ごすい)する犬、その奥、色とりどりの敷石をモザイクのように並べたテラスに、藤で編んだ長椅子を出して女が寝そべっている。なぜこんなところに知り合いのフリュギア女がいるのだろう。不思議だ。

彼女は身を起こして手招きする。おそるおそる私は、瓦葺きの門をくぐってテラスに入る。彼女にずいぶん近づいてみてやっと気付いた。

「やあ、バルシネだね、君は。」すっかり見違えた。

真っ白な白粉、真っ赤な口紅、目は黒々と縁取ってその上青く塗った(まぶた)(まばた)きするたびに蝶の羽のように開いたり閉じたりする。その濃い化粧が彼女の年齢にいかにもふさわしかった。

彼女はミエザにいたころから人妻だったが、ますます大人びて見えた。私は意外な再会に驚いた。「どうして君がここにいるんだい。」

「説明すると話が長くなるんだけど要するになんやかんやがあって船に乗りラクダに乗ってあちこち連れ回されて今はここに連れてこられたってわけさ。」

「へえ。そりゃずいぶんややこしそうな話だね。」何の説明にもなってない。バルシネっていつもこんな調子だ。

「うん。私の夫が私をシドンで置き去りにした。シドンにマケドニア軍が近づいているというので今度はここへ送られてきた。」シドンは、ビュブロス、テュロスとともに、地中海岸の町。

「ちょっと待ってくれ。」バルシネは亡夫メムノンの話をしているらしい。「君もたぶん知ってるとは思うが、私は今マケドニアに従軍している。君は今、私の敵なのか、それとも味方なのか。」

今、私たち二人はフリュギア語で話している。二人ともだからフリュギア人、同胞だと言っても良い。しかしフリュギア人であるということはそんなに簡単なことではない。

ヘッレースポントス海峡を挟み、アジアとヨーロッパの(あわい)に棲む我らフリュギア人は、そもそも何人なのかが曖昧だ。時と場合によってギリシャ人ともいえるし、ペルシャ人ともいえる。

「敵か味方か。そうね。どちらかといえば今は敵どうしなのかもしれないね。」

大して考えてもいないふうに彼女は言う。

「君の夫ってメムノンか。」

「そう。」

王や彼女の父アルタバゾスからある程度の事は聞いて知っている。バルシネはメントルの妻となった。つまり、メントルは提督アルタバゾスの娘婿になり、アルタバゾスの跡取りとなった。アルタバゾスとメントルはもともとペルシャに仕えていたが、アルタバゾスはアルシテスとの政争に敗れてアルシテスにフリュギア太守の地位を奪われた。

これがグラニコスの戦いの遠因になっているんだけどね。

ペルシャを()われたアルタバゾスはマケドニアを、そして彼の娘婿メントルはエジプトを頼り、ペルシャと対抗した。

メントルはしかしペルシャに寝返ってエジプトと戦った。

父と夫がマケドニアとペルシャに分かれて対立したため、バルシネの立場は宙ぶらりんになった。

バルシネは戦地エジプトを避け、父アルタバゾス、メントルの弟メムノンとともにマケドニアに亡命した。当時マケドニアはペルシャの同盟国、というより属国の地位にあった。

ところがエジプトが滅んだ後数年してメントルは病死した。

バルシネはマケドニアで、年下のメムノンと再婚した。

つまり今度はメムノンがアルタバゾスの跡取りになったのだ。

メムノンは兄メントルと同様にペルシャに付いた。ペルシャとマケドニアの戦争が始まるとアルタバゾスも仕方なくマケドニアを去り、ペルシャに付いた。

そのメムノンも、マケドニアとの戦いの最中、病死した。メントルとメムノン。二人とも病死だったというがしかし、彼らが本当に病気で死んだのか、真相は誰にもわかるまい。

アルタバゾスもハカーマン家の一人、つまりペルシャ王家の血を引く者だから、一時的にマケドニアに亡命していたからと言って、一族ごとまたペルシャに帰したのは、当然といえば当然と言えた。

「つまりメムノンは、マケドニアとペルシャが戦争になったんで、君を人質にして、ペルシャに引き渡したってことか。」
「そうよそういうことよ、エウメネス。あんた相変わらずすごいね。」
「なんだよ。」
「話をまとめるのうまいじゃん。」
「変なことでほめるなよ。君、夫を失って寂しいかい。」
「別に。せいせいしたよ。」
「君たちに子供はいるのかい。」
「ああ。でも、女ばかりだよ。男じゃなきゃ船乗りになれない。でも、女でも婿取りにはなるけどね。
父も子だくさんだったけど、女ばかりだった。遺伝かねえ。」
「男もいるじゃないか。」
「えっ。」
「君の弟だよ。」
「ああそういえば一人だけ、ずっと年の離れた弟がいたっけかな。今は何才くらいかなあ。」
「その弟って、ファルナバゾスって名じゃなくて?」
「よく知ってるね、エウメネス。たしかそんな名前たったわ。」
「彼が今やペルシャ海軍の提督だよ。」
「へえ。」
「へえって。知らないのかい。」
「ごめんなさいね。今知ったわ。あなたから聞いて。」
「別に謝ることはないさ。君にとってはあまり関係ないことみたいだね。」
「うん。で、私は父の部下メントルと結婚させられた。メントルが死ぬと私はメントルの五才年下の弟メムノンの妻になった。お互い再婚どうしだったけどね。」
「知ってる。」
「ああ。アレックスに聞いたのね。」
「アレックスって。」
「今やマケドニア王のアレックスよ。」

アレクサンドロスのことをアレックスなんて呼び方するのはバルシネくらいしかいるまい。そういや彼女は昔ミエザにいた頃にもおんなじように、彼をそう呼んでいたっけ。

「私は君のお父さんから直接その話を聞いたんだよ。」
「父に?」
「王が私に君の父を引き合わせたんだ。」
「ふうん。つまりやっぱり、王つながりってことね。」

彼女はアラム人風のゆったりとしたラクダの毛衣を着ている。
ペルシャの商人と言えばフェニキア人とアラム人だ。
フェニキア人は海の民で、地中海沿岸にいくつも港を作っている。フェニキア人の国もいくつもある。

アラム人は砂漠の民、つまり遊牧民で、これといって一つの国を持たない。ところが彼らの言葉アラム語は、帝国アラム語とも呼ばれ、ペルシャからはるか遠くインドまで、公用語として使われている。ペルシャ帝国で刻まれる貨幣に刻印される文字も専らアラム文字だ。アラム文字はもともとフェニキア文字からできたのだが、フェニキア人ですらアラム文字を使う。それほどにアラム語とアラム文字は普及している。つまりそれほど広く彼らアラム人はこの広いアジアを交易して回っているということなのだ。

もちろんペルシャ人はペルシャ語を、アッシリアやバビュロニアではアッカド語が、フェニキア人はフェニキア語を、エジプト人はエジプト語を話すのだが、商売だけでなく、外交には必ず、各国の言葉にアラム語訳が添えられるのである。

アラム人には国が無いと言ったが、ここダマスクは唯一、アラム人の国と言っても良いほど、アラム人の占める割合が多い。

しかしながらダマスクという町が昔からずっとここにあったわけではないらしい。

ダマスクという地名は千年以上前からあったが、時代によってアラム人とともに移動するらしいのだ。だからダマスクとは、アラム人が住む砂漠の中のオアシスの町、という程度の意味しかないという。実にアラム人らしい町ではないか。砂漠の中をさすらう民と町。

「ぼんやり立ってないで、座ったら。」

座ると言っても、彼女が座っている長椅子しか無いので、そのはじに腰掛けた。小高い丘の上にあるそのテラスから、いくつもの丘にまたがるダマスク市街が一望できる。砂埃が舞っているのだろうか、空気が午後の強い日差しの中にキラキラ輝いて見える。

「山登り?喉が渇いたでしょう。」

もう何年も会ってないのに、つい数日前会ったばかりみたいな口調で、バルシネが水差しから水を注いでくれる。

「ずいぶん奇遇だね?」
「ええ。」彼女は、久しぶりの再会に驚くでもなく、喜ぶでもない。

猫みたいだ。そう。猫も久しぶりに会って、懐かしいなって思って、向こうもこっちを覚えているよって顔つきはするのに、態度はそっけない。

「ははあ。わかったぞ。ペルシャ王は王女や侍女をエジプト詣でに連れて行くといって、バビュロンの宮廷から連れ出した。そしてイッソスに出かける間、このダマスクに暫く待たせておいた。だから君もここへ連れてこられたんだな。」
「まあそういうところ。」
「こんなところで何してるんだい?」
「寝覚めのおやつでも食べようと思って。あんたも食べる?」
「何を?」

バルシネが手を叩くと執事や侍女らが食器をテーブルに運んでくる。
侍女の一人が麻袋からひとつかみの木の実を取り出してボウルに盛る。

「棗(なつめ)か。」あの椰子の木にたわわになっている果物だ。見たことはあるが今まで食べたことがない。

「山羊の乳のヨーグルトをかけて食べるとおいしいわよ。」

私はそのボウルの中の棗を一粒だけつまんで口にいれてみた。赤く色づいた生の実だ。良く熟れていて柔らかくて甘い。口の中に種が残った。この種をどうすれば良いのだろうか。

バルシネはボウルにヨーグルトを注ぎ、棗ごとスプーンですくって、その種だけ石畳に吐き出している。それを見て安心して自分も種を吹き出した。

「君はダマスクの王宮にいなかったね。パルメニオンが入城したとき、ここに隠れたのかい。」
「そうね、そんなところかしら。」
「君一人?」
「バカね。見ての通りよ。女一人でこんなところに住んでるわけないじゃない。私の娘と息子。そして執事たちも。こう見えて私、大所帯なの。その上、ペルシャの王族なのよ。」
「君の父親のアルタバゾスが王族だってことだね。」
「そうよ。実を言えば、ペルシャ王が負けて逃げたって聞いたとき、どさくさに紛れて、少々お宝をくすねておいたのよ。これからどれだけ入り用になるかわかんなかったから。でもこのくらい必要経費のうちだわ。」

そういえば、彼女が身に付けている指輪、ネックレス、耳飾り。みな宝石がちりばめられていて、ずいぶん高そうだ。

「ここにずっと住む気なのか。」
「まさか。」
「私はこの町が、すごく気に入った。できればしばらくここに暮らしてたいなあ。」
「アレックスも、そうしたいって?」
「いや、私たちは王のお供でエジプトまで行かなきゃいけない。」
「へえ、何しに。」
「だからさ、ペルシャ王女のお供で神殿巡りするらしいよ。あとピラミッドとか。」
「じゃあ私も連れていってもらおうかしら。この世の中のありとあらゆる香水の中で、エジプトものが最上だって言うじゃない。それに、ルクソールのカルナク神殿に行ってみたい。この世の穢れをすべて洗い流してくれる、聖なる池があるんでしょう。私、穢れてしまったの、身も心も。」
「君はやめといたほうが良いよ、またどうせ途中で戦争になる。無事で済みやしないよ。知らんぷりして、お金持ってどこかに逃げちゃったほうが良い。」
「そうかしら。」
「そうだよ。そうしなよ。」
「それもそうね。」彼女は一瞬寂しげな表情を浮かべた。「でも久しぶりに会いたいわ、彼に。」
「王にお目見えする気か?」彼女と王の間柄なら、別に問題はなさそうに思える。「連れて行ってやろうか。」
「いいわよ。一人でやるわ。なんて言うかしらね、アレックス。」

バルシネが王に、子供の頃のように「よっ、アレックス、」と声をかけるところを想像した。まあ、あの王のことだ。笑って許すだろう。

メムノンとバルシネ、そして私はミエザで親しい友だちどうしだった。
バルシネはメムノンと再婚どうしだと言った。
それはそうなのだろう。
バルシネの夫メントルは死んだ。
提督メントルの跡継ぎが必要になった。
そのときメムノンにはすでに妻がいた。というより、若いころから海の男にはあちこちの港に妻がいるものだ。メムノンはそれらの女たちと縁を切って、兄メントルの跡を継ぐべく、バルシネと結婚したのだ。

「君はもう二人も夫を亡くしたんだね。」
「むふふ。」

彼女は変な笑いかたをした。あんまり悲しくなさそうだ、むしろ生き生きとしている。

「夫と言っても、やれ戦争だ、私ゃ人質だで、ほとんど別居だったけどねえ。」アルタバゾスは部下のメントルを見込んで娘のバルシネと結婚させた。時にアルタバゾスは主君アルタクシャサ三世に叛してギリシャと結ぼうとしたが、アルタクシャサは賄賂でギリシャを懐柔し、アルタバゾスは捕らえられた。メントルは弟メムノンやギリシャ人傭兵らと協力して義父アルタバゾスを救出した。

アルタバゾス、メントル、メムノン、そしてバルシネはマケドニアに亡命し、アルタバゾスを継いで提督となったメントルはペルシャと対抗するためエジプトの庇護を求め、ファラオのネクトネブエフ二世に士官した。ところがメントルはペルシャ軍に捕らえられ、逆にペルシャ王アルタクシャサ三世のためにエジプトを攻め、父アルタバゾスとも対立することになる。

ナクトネブエフ二世は敗れてエジプト王朝は断絶した。メントルはさらに政敵ヘルミアスを陥れて殺した。メントルはアルタバゾスらを赦免して帰国を許したがまもなく死去。メムノンが兄メントルを継いで提督となり、バルシネはメムノンと再婚するがバビュロンに送られ人質となる。そんなこんなが七年前。そう。最後にバルシネを見てからもう七年が立つのだ。その二人目の夫メムノンもこないだ戦死した。二人の夫はともに、嫁と一緒に過ごす時間はほとんどなかっただろう。「あんたこそ、お嫁さんとはうまくやってる?離ればなれで寂しくない?」
「嫁さん?私の?」
「ええ、たしかアテナイで知り合った、アルトニスって娘と結婚したそうじゃない?」

なぜバルシネがそんなことを知っている。王軍の誰かが、アルトニスと会うため私が帰郷したという話をしたのだろうか。

「誰からそんな話を聞いたんです。」
「父よ。父からの手紙で。」
「アルタバゾスが?なぜ彼が私のプライベートなことを気にするんだ。」
「だって、アルトニスはアルタバゾスの娘なのだもの。」
「ええっ。」

初耳だった。
衝撃の事実。

「そうよ、知らなかったの。」
「アルトニスは、自分の父親は忘れたと言ってた。」
「へえ。そうなの?あの子はね、父がレスボス島に寄港したときに手を付けた女に産ませた娘よ。」
「つまりバルシネ、君は、アルトニスの姉なのか。」
「そういうことね。腹違いだけど。」
「君はアルトニスと会ったことがあるのか。」
「子供の頃一度見かけたかしらね。あっちは幼すぎて、覚えてないでしょうよ。」

あまりのことに私はしばらく言葉が出なかった。アルトニス。君ほどの秀才が自分の父の名を忘れるはずがない。きっと思い出したくも、名前を口に出したくもなかったのだろう。確かにアルタバゾスはフリュギアの提督だ。そしてアルトニスの父も提督だって言っていた。アルタバゾス。あのこんがりと日に焼けた顔。ごつごつと節くれ立った指。私はその、まさに海で鍛えた船乗りの風貌を思い浮かべた。

バルシネとアルトニス。母が違うせいだろう。あまり似ていない。バルシネは巻き毛でふっくらした顔つき。アルトニスはほっそりとしていて髪の毛もまっすぐ腰まで伸びている。ただ、鋭い目つきが似ていなくもない。アルタバゾス譲りなのかもしれぬ。

私は一言弁明しなきゃならない気持ちになった。

「アルトニスとは別に結婚したわけでもない。婚約すらしてないんだ。」
「なあんだ。父の早とちりか。」

どこでどんなふうに話が広まっているのだろうか。困ってしまう。

「アルトニスは今どこにいるか、知ってるか。」
「気になる?」
「ああ、そりゃまあね。」
「父アルタバゾスと一緒に、ペルシャ王の後を追っているらしいわよ。」

そうか、つまり、アテナイを失踪したのは、父と行動を共にするためだったのだ。

「エウメネス、あんた、アルトニスと私、どちらが好み?」
「えっ?」
「あんたが私の三番目の夫になってもいいのよ。」

バルシネが唐突におかしな目つきでおかしなことを言うので、私は吹き出した。
でも彼女は真顔だ。

「冗談だろ、」と言いかけてやめた。

南国の夜は急に更ける。涼しい風が吹いて、ダマスクの明かりが、意味ありげに揺らぎ始める。

メムノンもきっとこんなふうにバルシネに口説かれたのだろう。「あんたが私の二番目の夫になっても良いのよ、」と。

「傭兵隊長メムノンの跡継ぎは、アルタバゾスの子ファルナバゾスに決まった。君の三番目の夫はファルナバゾスがふさわしいんじゃないのか?」

「いやあねえ、近親相姦になっちゃうわ。ペルシャ人やエジプト人じゃあるまいし。」そういう彼女も実はペルシャ人の血を引いているのだった。「彼はれっきとしたアルタバゾスの息子なんだから、私と結婚するまでもない。誰の婿になる必要もない。そのまま父の後を継いで提督になればいいのよ。」

風向きが変わって、単調なの音が、砂漠のほうから、大きくなったり小さくなったり波打って聞こえてくる。バルシネの、だらしなくほどけた髪が私の鼻先にいて、かなの香りがする。私はその匂いでふと、リュケイオンの、油絵具の匂いが充満した美術教室を思い出す。アルトニスはいつもそこで、一人残って一生懸命下手くそな絵を描いていた。私はいつも彼女をひやかしたものだ。

棗はボウルの中に半分以上残っている。なぜだかやけに、目の前にアルトニスの顔がちらついている。