ぽろり、ぽろりん、と、どこか聞き覚えのある竪琴の音が聴こえた。
振り返ると、驚いたことにそこには、10年前とちっとも変わらぬ、細い切れ長の目で、ひっつめ髪をした、キルケー女史がいた。
「キルケー先生、あなた、アテナイから、ここスーサまで来たのですか、わざわざその竪琴を持って?」
「そうよ。アルトニスがエウメネスと結婚するとなればその挙式で私がお琴の演奏を披露しないわけにはいかないでしょ。」
「ありがとうございます。でも、えと、すみません。先生。私は確かにあなたの教え子の1人でした。しかしまだあなたの単位は一つも取れておりませんでしたのに。」
「おほほ、エウメネス。案じることはないわ。あなたのために来たわけじゃないのよ。私はアルトニスのためにきたの。」
「ああそうですか。ところでキルケー先生。あなたはハルパロスが今どうしているか、ご存じなのではありませんか。」
「うーん。ちょっと私の口からは答えにくいわね。」
「おや。なんだか知ってそうな口ぶりですね。なぜもったいぶるんです。」
「あんまり関わり合いたくないのよね、彼とは。わかるでしょ。」
「いやいや。全然わかんないですよ。なんなんですか。そしてあなたはピュティオニケも知っておられるはず。」
「ええもちろん。だからなんだというのよ。あの子はただの楽団仲間よ。」
「あなたは我が師アリストテレスがアタルネウスの領主でマケドニアからアテナイに送り込まれたスパイだってことも知ってたんでしょ。あなたはいつもすべての陰謀に関わっている。あなたはいったい何者なんですか。ピュティオニケの葬式代はほんとは何に使われたんですか。」
「さっきからあれやこれや根掘り葉掘り。
やぼなこと聞くんじゃないわよ。私はただ、ちょっと顔の広い音楽家に過ぎないわ。」
「私は今やマケドニアの財務官なんです。ハルパロスがやっていたこと、やり残したことはなんでも知りたいんです。これは私の今の仕事なんですよ。なんならあなたを顧問で雇いたいくらいだ。」
「キルケー先生。ハルパロスのことなら私も聞きたいわ。」そういうのはアルトニスだ。
「おや、君もハルパロスのことを知ってるのか。」
「当たり前よ。ハルパロスはキルケー先生の一番弟子で、アテナイでは一番有名な音楽家。知らない人などいないわ。」
「えっ。ハルパロスはアテナイという町が自分に音楽を教えた、音楽は自己流で、酒場で自然に覚えたと言ってましたが。」キルケーとアルトニスが高笑いした。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃないわよ、」アルトニスがそういうので私はうれしくもあり、恥ずかしくもあった。
「ハルパロスはああ見えてとても真面目で真剣な、私の教え子の中でも一番忠実で熱心な子だったのよ。」
「それは何年くらい前のことで?」
「彼がまだ八つとか九つくらいのことかしら。」
「へえ?」
「じゃあね、アルトニスのために教えてあげようか。近頃、アテナイで若者に人気の、サモス島生まれの哲学者がいるって話、聞いたことある?」
「それ、エピクロスね?」
「エピクロス?」風の噂で聞いたことがあった。「それっていまどき流行りの教祖様だろ。」
「「エピクロスの園」っていう学園を作ったのよね。そこに、有為な子女らを集めて、共同生活を始めた。人生の目的は徳の高い人間になることではない。幸福になることだ。今の哲学者は、徳を積めば幸福になれる、と解く。しかしながらエピクロスは一人一人の人間が幸福になることを追求すれば人はみな自然と徳の高い人間になれる、と説いている。」
有為な子女を集めて共同生活?はて。以前にどこかで誰かに聞いたことがあるような。
「世間ではそんなふうに言われているかもしれないけど、その認識はちょっと違っているのよ、アルトニス。私たちが言う「園」とはアカデメイアやリュケイオンのような、いわゆる「学園」の一つ。いえ、歴史的に言えば、私たちが営んできたケーポスの影響でアカデメイアやリュケイオンができたのよ。」
そうだ。思い出した。だいぶ前にハルパロスがそんなことを言っていた。
ケーポスという若者たちの共同体について。それ以来ずっとケーポスのことは聞きそびれていた。
「なんですって。よくわからないわ。」
「私たちは園の中で私有財産を喜捨して共同生活する。ハルパロスも私も、ピュティオニケも、その教団に属しているの。」
「教団?私たち?ハルパロスもいるって?待って下さい。ピュティオニケもいるのですか。まだ死んでないのですか、彼女は?」
「ピュティオニケのことはおいとくわね。話がややこしくなりすぎるから。
わかりやすいように教団とか学園と言ってはいるけど、実態は音楽家たちの組合みたいなものね。娼婦組合とも似ているわね。ピュティオニケは親に捨てられ叔父の家を逃げ出して娼婦となり、音楽家となった。彼女のような者らを救済し互助するのが私たちの教団。私たちは国家権力や既存の社会秩序の外側で独自の共同体を作り生きてきた。
しかもそれは、もともとは悠久の昔からデロス島に伝えられてきた秘儀を守る教団だった。」
「デロスの秘儀?それってもしかして、デロス同盟の母体となったデロス教団と関係があるのかしら。でも、百年ほど前、ペロポンネソス戦争の最中に、ペリクレスによって弾圧され、解体された。」
「そう。デロス教団。」
「待ってください。キルケー先生。そのデロス教団に、あなたや、ハルパロスや、アリストテレスや、ヘルミアスや、エウブロスもみんな関係あるんですか。もしかしてアルタバゾスやアルトニスやバルシネも?」
「あら。意外と詳しいのね、あなた。誰から聞いたの、エウメネス?」
「それは、アルトニスやハルパロスや、アリストテレスが言っていたことを総合すると、そういうことにならざるを得ないじゃないですか。」
「良い機会だから一から説明してあげる。
デロスは、今は祭祀も廃れ、大理石がむき出しになった小さな無人島と化している。
地表には畑を耕すための土壌もない。草木も生えないから牧畜もできない。キュントスの麓に湧くたった一つの泉も日照りが続けば枯れてしまう。完全に不毛の島。
しかし、デロスにまつわる古い言い伝えによれば、デロスを取り巻くキュクラデス諸島と呼ばれている二千あまりの島と無数の岩礁は、かつてデロスを中心とする一つの大きな島をなしており、肥沃な農地と山林を有し、エーゲ海一円を支配する強国であったというのよ。私たちはその国を古代エーゲ王国、またはアイガイオス王国と呼んでいる。」
「アイガイオス。はあ。エーゲ海にそんなに大きな島があったんですか。しかも古代文明が栄えていたと。でもそれはどのくらい昔の話で?」
「何千年か、何万年か。あるいは何十万年か。確かなことはわからないが、数百年単位で起こったことではない。悠久の月日が流れるうちに、地震や津波、洪水が続いて、海面が上昇し、そのほとんどは海に没してしまった。」
「しかしそんなことは、ホメロスもヘロドトスも言い残してないではありませんか。」
「そんなことはないぞ、エウメネス。断片的ではあるが多くの神話や言い伝えが残っている。まだ我らギリシャの民が文字を持たなかった頃から、口から口へと伝承してきたことだ。少なくとも、アイガイオスがギリシャで最も古い文明であることは紛れもない事実。
アイガイオスは一度に消滅してしまったのではない。いくつもの段階を経て、アイガイオスは沈み、人口が減り、衰退し、今のギリシャ国家群へ移り変わったのだ。
伝説に言う。テーバイをオギュゲス王が治めていた頃、ギリシャで初めての洪水があった、と。オギュゲスはあるいは、アテナイという町が興るよりも以前にアッティカを治めていたともいう。
オギュゲスはオケアノス、つまり大洋神ではないかとも言われている。つまり、我々がオギュゲスの洪水といっているのは、地上に陸と海が最初に分かれたときのことをいうのかもしれない。
このオギュゲスの洪水とどちらが先で後かは定かではないが、あるときゼウスは、ようやく地上に増え始めた人間を目障りに思い、彼らを滅ぼそうとして地上に洪水を起こした。それはクレタのミノス王の子、デウカリオンの時代であったという。
またトロイア初代のダルダノスの時代にも大洪水、もしくは大津波が起き、ダルダロスはこの事件をきっかけとしてトロイアを建国したとされる。
このように、ギリシャ全土を相次ぐ天変地異が襲った。そのため、アイガイオスの民は、四方に散っていった。あるものはクレタに、またあるものはアジアに、またあるものはアッティカやペロポンネソスに。ミノスはクレタに王国を建て、またある者はアジアの岸辺にトロイアを築き、また或る者はペロポンネソス最古のミュケナイ文明を花開かせた。」
「信じられない。それはプラトンのアトランティス伝説のようなものでしょうか。」
「アトランティスはヘラクレスの柱の外にあった、と言われているが、何かの関連はあるかもしれない。」
「長い歴史を持ち今日まで続いているアテナイやスパルタよりも古い、ミノスやミュケナイに先立つ古代文明ってことでしょうか。」
「さまざまな、細切れの伝承をつなぎ合わせればそういうことになる。
ちなみに、アテナイ初代の王はケクロプス。しかし彼は人の子ではなく、ガイアから生まれ、下半身が蛇だったという。」
「ポセイドンとアテナがアッティカの領有を争ったとき、アテナのほうが先にアッティカにオリーブの木を植えたと証言したのがケクロプスですよね。」
「そうだ。そのためケクロプスはアテナからアッティカに町を与えられ、この町をアテナイと名付けたが、アテナイはポセイドンの恨みを買った。
二代目のアテナイ王クラナオスはケクロプスの子であるとも、あるいはやはりガイアから生まれたと言われている。
クラナオス王の時代にデウカリオンの洪水が起きた。アテナイが海神ポセイドンの怒りに触れたせいだともいう。デウカリオンの子アンピクテュオンはクラナオス王に代わって三代目のアテナイ王に即位した。人の国アテナイの歴史はこのアンピクテュオン王から始まると言われている。」
「へえ。」
「デロスの周囲にアテナイやスパルタ、クレタ、トロイアが勃興する一方で、デロスはキュントス山の頂だけを残して不毛の無人島になってしまった。それでもこの、かつてのギリシャ文明アイガイオスの中心、キュントスの麓では、古代の祭祀が続いていて、その秘蹟を受け継いでいる。」
「その秘蹟を受け継ぐのがキルケー先生。あなたや、ハルパロスや、そしてあなた方の後継者、エピクロスだっていうんですか。」
「ほほ。そうよ。
信じるかどうかはあなた次第。
アテナイの古い王政もまた、デロスを神聖視してきました。
デロスを穢してはならない。
あるときアテナイでは聖地デロスに墓を造ることが流行った。デルフォイやオリュンポスのようにね。人々は生前そこに墓を作っておき、そこに葬るよう遺言して死んでいった。しかしそれはこの島に生まれたアポローンに対する冒涜だというので、墓はすべて島の外に移されることになった。
そうしたことが何度も繰り返されてきました。」
私もその話は多少聞いたことがある。
デロスは島自体が大理石でできた海上に浮かぶアクロポリスであると考えられてきた。そこにはギリシャでも最も古い形式の神殿と劇場が建っており、またギリシャで最も古い様式の音楽と舞踊が伝承されている、という。
デロスに参詣する者は、上陸に先立ち、まず海に全身を浸して身を清める。食料の自給が不可能なこの島で禁欲生活する神官や巫女らに浄財を献納する。それがデロスに託された本来の資産。デロスは金融の中心であり続けた。多くの金融業は民族に信仰される神殿で発達してきた。テュロスやデロスもまたその一つ。そのデロスの金庫をアテナイに移してしまったのがペリクレス。
「つまりこういうことね、ペルシャ王ハシャヤーラシャー1世の親征という未曾有の国歩艱難に際して、ギリシャの民は、デロスへの喜捨という形で、軍資金を拠出した。デロスこそはギリシャ人共通の故郷だから。でも、その資金を横領したのがアテナイの独裁者ペリクレスだった。
ペリクレスによって、アテナイに長らく続いてきたデロス尊崇の念は完全に失われた。」
「そうよアルトニス、その通り。ハルパロスはただ単に、私たちの教団を、ペリクレスにより破壊されたデロスの祭儀をアレクサンドロスの力を借りて復興しただけなのよ。」
デロスの密儀か。聞いたことはあるが、それがハルパロスの言っていたケーポスと関係があったとは。
「ちょっと待ってくださいキルケー先生。
つまりエピクロスは彼一代で彼の学派、エピクロス学派を創始したわけではないと。ええ、そりゃそうでしょうね。
彼の教義はもともと、デロスに古えから伝わる秘儀に由来すると。彼はその秘儀を守る結社の指導者に収まった。」
「そう。その通り。」
「あなたもその密儀がいかなるものかを知っているのですね。」
「ええ。」
「実際に執り行ったこともあると。」
「はい。」
「あなたはその司祭ですか。」
「司祭、とは?」
「教団を率い、信徒を導き、密儀を執り行う主催者でしょうか。」
「そうね、私も子供の頃に入信してから、ずいぶん長いこと属していたから。それくらいのことはやってのけるわね。でも私は、多少古株だってこと以外、ごく普通の構成員。」
「ではその密儀や教義について詳しく知っておられるのですね。どんなことをするのですか。」
「それはエウメネス、あなたが私たちと契約を結び、私たちの教団の一員にならないことにはその内容をあなたに明かすことはできません。それが決まりです。」
「アリストテレスは教団員ですか。」
「違います。あなたがまだ私の教え子だった頃、私はあなたに言いましたね。アポローンの神域に建てられた、このリュケイオンでは特に神学(テオロギア)、また神学に最も関係が深い体育(ギュムナシオン)と音楽(ムーシケー)とは必修になっていると。
デロス島のキュントス山はアポローン生誕の地。
その密儀を伝授するためにギリシャ本土のアテナイに作られたのがリュケイオンであり、リュケイオンを任させているのが私なのです。私は教え子たちの中からこれはと思う者がいたら、その子に宣誓させて、密儀を伝授しているのです。」
「もちろん私はあなたにとって、これはと思える生徒ではありませんでしたよね。」
「聞くまでもないことだわ。」
「わかりました。それだけで十分です。私の師が無関係だということさえわかれば。あいにく私も、あなたの言うことには興味ありませんし。今後、私の人生とも関係ありません。多分。君もそうだろう?アルトニス。」
「ええ。私とも関係ないわ。」
「そうね。あなた方が私やハルパロスのことをこれ以上知ったところで、あなたがたには何の関係も無いでしょう。
ただ、あなたたちにも知っておいてもらいたいのは、私たちの若き指導者は、快楽を追求すれども、快楽をむさぼらない。そうした教えを説いているのです。快楽を忌避し高尚な知性や人間性を重んじる巷の哲学者のほうがむしろ快楽をむさぼっているのです。いえいえむしろ彼らは快楽を知らないのです。快楽のなんたるかを。快楽は生み出すものであって消費するものではない。
わかりますか。快楽をとことん追求しなくては、芸術は生まれません。しかしそれは、芸術を生み出すために必要な修行であり訓練であって、単に快楽を享受し消費することではないのです。
いわば一部の才能ある芸術家が体得した精神の境地を一般社会にも敷衍していく。そうして個々人が快楽を追求した結果、無欲な社会が実現する。それが私たちの使命です。」
「なるほど、なるほど。うん、言いたいことは、なんとなくだけどわかります。ハルパロスも実はそういうやつなんでしょうね。
でも私には単に、ハルパロスがマケドニアの金を横流しし、そのエピクロスという新興宗教の教祖様に貢いで、土地を与えてやってるだけのように見えます。いや、ハルパロスが実際に、あなたの言うとおりに、ギリシャ古来の伝統を復活し、デロスを復興しようとしているのだとして、王もまたハルパロスの事業を陰ながら支援している、あるいは容認しているとしても、人々はまたあのハルパロスが、王の金を持ち逃げして放蕩していやがる、くらいにしか思わないでしょうなあ。」
「あなたのいうとおりかもしれないわね、エウメネス。でもそれでいいじゃない。何の問題があるの。世の中とはそうしたもの。常に誤解している。人々の誤解を解いてるヒマと金があるくらいならその時間と金を自分の信念を実現するために使えばいいじゃない。」
「それってソクラテス学派やプラトン学派に対する批判でもあるようですね?」
「どうしてそう思うの。」
「彼らはいつも体裁や評判ばかり気にしている。」
「そうとも言えるかもしれないしそうではないかもしれない。私には関係ない。」
「もしかしてディオゲネスもあなたたちの仲間ですか。」
「どうかしら。確かにデロス教団の流れは汲んでいるようね。でも多少教義の差異はありますけど。」
「キルケー先生はそのエピクロス学派の中でどのような役割を担っておられるのですか。」
「私なんか末端の構成員に過ぎないわ。」
「キルケー先生もハルパロスやエピクロス、ディオゲネスの考えに賛同しているの?」アルトニスが聞く。
「アルトニス。私にはディオゲネスやハルパロスみたいな生き方はできない。女の身では。せいぜい音楽家として、女教師として生きていくことくらいしかできない。ただ彼らのような生き方には憧れてるけどね。」
「キルケー先生。私は、エピクロスについてあまり良い噂を聞きません。そのエピクロスの園にしても、若者たちが働かず、ただ自堕落に遊んでいるだけのところだと聞きました。もしハルパロスがエピクロスにお金を援助して若者たちを怠け者にしているだけだとしたら、私にはとても賛成できません。ねえ、あなたもそう思うでしょ、エウメネス。」
「いやあ。そりゃそうだがしかし君。働かなくてすむなら私もエピクロスの園で暮らしてみたいなあ。君は違うのかい。アルトニス。」
「そんな都合の良い話がこの世にあるはずないでしょ。楽をすればそのぶん後でツケを払う羽目になる。あなたはアタルネウスの領主になり、私たち家族を養い、領民を治め、戦になれば兵を率いて戦わなくてはならない身分なの。もう勝手にどこかをほっつきあるいたり、どこかで勝手に野垂れ死ぬのも許されてないの。わかった?」
「ああ。アルトニス。わかってるよそんなことは。」
アルトニスのやつ。もうすっかり女房きどりだ。
そう。楽しい青春時代は過ぎ去った。ハルパロスと一緒に気ままな暮らしをしていた自分とはもうおさらばだ。これからは真人間になって死ぬまで働くのだ。
私にはハルパロスやエピクロスのような生き方はできない。もう後戻りはできないんだ。こうしてアルトニスと再会したからには。
