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インダス川

 ヒンドゥークシュの雪解け水は幾筋もの流れとなって山麓を下り、ガンダーラの沃野を潤し、カーブル川へと収斂する。カーブル川は大河インダスが集める支流の一つに過ぎない。インダスの本流はヒマラヤの氷河を源とし、アラビアの海へ注ぐ。

 我らはカーブル川沿いにヒンドゥークシュをくだり、パンジャーブ平原の入り口に至った。ここは実に水の豊かな土地だ。ナイルやメソポタミアみたいな濁った泥水とは違う。あくまでも澄んで、清らかな水。

森閑とした樺の林、満々と水を湛え、(みず)()をゆらゆらと揺らめかしながら深く清らかに流れるせせらぎ、神霊が宿る深く静謐な湖、岩棚から垂れる幾筋もの白い滝。そのむこうにはどこまでもうねうねとなだらかに続く萌葱(もえぎ)色の牧場。思わず息を飲むほどに美しい所だ。

 さらに進むとカーブル川へ東から何本もの大河が合流する地点に至り、ぐっと水かさも川幅も増した。水も黄土色に濁っている。そこで我々はやっと気づいた。これはカーブル川へ支流が合流しているのではない、まさにこれがインダスの本流なのだと。

 「インダスを越え、インドを取らねばペルシャの旧領をすべて回収したことにはならない。」

王がなおも東へ進もうとしていることを知って、兵らは深いため息をついた。

全軍が浮き橋を渡す作業に加わる。舟を並べてつなぎ合わせ、板を渡して、橋にするのだ。(おか)の上では大勢の人足らが、丸太を(のこ)()いたり、舟を組んだり、資材を積み上げたり運んだり、忙しそうに立ち回っている。

そのようすをぼんやり眺めていると、「おいエウメネス、」と声をかけてくるやつがいる。振り向くと筋骨隆々、よく焼けた上半身を日光に晒し、袈裟懸けに蛮刀を背負って、獣の牙を数珠つなぎにした(くび)飾りをかけた男が腕組みをしてこちらを睨んでいる。この男、好んでこういう野蛮人のような格好(なり)をしたがるが、マケドニアではれっきとした貴公子の一人だ。

「おまえもただ見てるだけじゃなく、たまには労働にいそしんではどうだ。」
「まるで私が仕事嫌いな怠け者みたいな言い方じゃないか、ヘファイスティオン。」
「いや、たまには頭脳労働だけじゃなく体も動かせってことさ。」
「言われなくとも、今手伝おうとしてたところさ。」
「力仕事した日の晩飯はうまい、びっくりするくらいにな。夜もよく眠れるよ。」
「たしか君がここの現場監督だったね。」
「監督?何の。」
「橋渡しの。」
「違う。」
「違うのか。じゃ私は何を手伝えば良い?」
「俺に聞かれても困る。俺は王に命じられ、先遣隊を率いてここまできただけだ。」
「君が隊長?」
「いや。隊長は王太子だ。」
「王太子って、ペルディッカスのことか。」

ペルディッカス。彼もマケドニアの王族。もし王が戦死すればただちにペルディッカスがマケドニア王に即位することになっている。つまりペルディッカスは王位継承順位筆頭だ。立太子の儀を済ませたわけではないが、だから彼をマケドニア王太子と言ってもおかしくない。

ギリシャに現在まで続く王朝のうち、最も古い王家は、紛れもなくスパルタ王家である。スパルタにはこれまで七十人あまりの王がいた。スパルタでは常に二人の王が同時に立つ。なんでもスパルタ最初の王が双子だったので、それ以来ずっと王は二人ずつ立つのだそうだ。それゆえ王朝としては約半分、三十代ほどが続いたことになる。一代あたり十年としても三百年は続いていることになる。

アテナイも建国当初は王国であった。初代の王ケクロプスは下半身が蛇だったというが無論これは伝説に過ぎない。アテナイは王政を嫌い、王を追放して神々の子孫を称する貴族らによる合議体となり、さらに今では貴族も追放して、大衆みずから大衆を治める比類無き市民政体を確立したと謳っている。一方スパルタの王政は太古からまったく変わってない。好対照と言える。

マケドニア王家、つまり、アルゲアス朝もまた、スパルタ王家同様、神と人が地上で共生していた幽遠の過去から連綿と血脈を保ってきた家系の一つであって、マケドニアは、つい最近歴史の表舞台に現れてきた、単なる僻地(へきち)の新興国、ではない。

そしてアルゲアス朝の系譜を(つまび)らかに(さかのぼ)ればむしろ、ペルディッカスの方が今の王より本家筋に当たると言っても良い。王者にふさわしい威厳、風格、気力、そして王者にしばしば見られるある種の狂気。それらすべてをペルディッカスは備えている。ただ彼は王となるには思慮の浅い、血気に(はや)る人だと評価されることが多い。

一方同じ王族といってもヘファイスティオンは、マケドニアに次第に刈り取られ束ねられていった古い近隣王家の末裔というにすぎない。アルゲアス朝とまったく無縁ではないらしいが、マケドニアの王位継承とはほぼ無縁だ。裕福だが責任は無く、気軽で自由な身で、性格にも屈託が無い。王の子供の頃からの朋友にはそうした立場の者たちが多い。

「おまえたちはカイバル峠を越えてきたんだろう?俺たちは王とは別の部隊を率いて、山岳地帯に逃げ込んだ蛮族を掃討しつつここへ来た。我らの方が険しい迂回路であったにも関わらず、もう一ヶ月も前に着いた。ところがのんびり骨休みする暇もなく、今度は俺たちに渡河工事が命じられた。本隊が到着する前に橋を架けておけとさ。どこまで働かせりゃ気が済むのかね。」

「仕方ない。ただ遊ばせておくわけにはいくまい。王はこれからまだまだやる気だ。」
「何を?」
「無論インド征伐さ。」
「ああ。休むとか諦めるということを知らぬ人だ。」
「インドは広いかな?」
「わからん。どのくらい広いのか、今までに調べたやつがいない。というより、これまで調べようとして調べたやつはいくらでもいたはずだ。インド人だかペルシャの商人だか、誰だか知らないがとにかく大勢いたはずだ。それでもいまだ誰も調べきれてない。それくらいに広いんだろう。」
「橋はもう渡せそうか。」
「いやいや。まだまだ。道中蛮族どもは山の中にちりぢりに逃げてしまい、俺たちも深追いはせずにここまですんなり来たんだが、インダスは大河だろ。渡るにも周到な用意が必要だ。さすがにアジアとインドの境をなす川だ。やれやれやっと渡り終えたと思うとそこはまだ向こう岸じゃあない。ただの中州で、またその先にも大きな流れが横たわっている。で、その先にも、またその先にも中州があって、いつまでたってもインドには達しない。きりがないよ。」
「うんざりだな。」
「王の本隊が到着するまでに、野営地を設営し、舟を作り、向こう岸まで渡って敵がいないか偵察した。橋を渡すにはまず舟が必要だからね。そうしたことに一ヶ月間忙殺されていたんだ。」
「そりゃご苦労さまでした。」
「ついでにワニを退治して、食っていた。」
「ワニ?」
「ああ、これだけの人数で食っても食っても食いきれないくらいいる。俺はここじゃさしずめワニ捕り隊長ってところだ。焼いて良し。鍋で煮ても良し。おまえ腹が減ってないか。食っていけよ。」

ヘファイスティオンが指さす先を見ると、ワニが何匹も棹に吊してあり、鍋を煮込む煙が(かまど)から立ち上がっている。

「いや。今は良い。うまいのか。」
「うん。まあまあだ。兵らはみんな、うまいうまいって喜んで食ってるぞ。鶏肉みたいなもんだ。それと、見ろよこれ。」と言ってヘファイスティオンは自分の頸飾りをじゃらじゃらと見せびらかす。「こんなにでっけえ歯が上顎に五十、下顎に五十、一匹で合わせて百本ばかり生えてやがる。捕っても捕っても切りが無い。どうだおまえも欲しけりゃ分けてやるぞ。」
「いや。遠慮しとくよ。」
「革も良い。丈夫で上等な革が獲れる。この鞘もワニ革だ。どうだカッコイイだろ。」

そう言ってヘファイスティオンは背中に背負った鞘から反り返った片刃の蛮刀をすらりと引き抜き、一振りしてまた鞘に収めた。刃と革が擦れ合う音がすさまじく寒気がする。

「良く似合ってるよ。」