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ザグロスに昇る月

私は馬を出して坂道を駆け上がった。

こちらでも、丘の下の騒ぎを聞いてみなベッドから出て、夜着の上にガウンを着て、シシュガンビス以下、不安そうに広間に集まっている。

セレウコスがいた。

「王妃は無事です。シュシュガンピス様やそのご家族も。アルトニスさんも。」
「アルトニスも?」
「ええ。」
「お会いになりますか。」
「いや、今は良い。無事ならそれで。アパマさんは?」
「アパマも大丈夫です。ご心配に及びません。ですが。」
「なんだ。」
「一人だけ。王妃の妹が。どこにも姿が見当たりません。」
「えっ。アマストリーが?」
「ええ。そうです。アマストリー様だけがおりません。」

まさか、アーリアブルダナは、二手に分かれて、王妃とアマストリーを同時に狙ったのではなかろうか。
だとしたらもう、誘拐されたか、すでに殺されたかも。

「アパマさん。アマストリーはどうしたのです。」
「わかりません。でも、姫は近頃、寝つけないと言って、よく一人で夜中に徘徊してました。」
「一人で?警備もつけず?」
「はい。」
「なんて不用心なやつだ。」
「何を言っても聞かない人ですから。」
「どこをほっつき歩いているんだ。」
「さあ。この宮殿の中だと思いましたけれども。」

プトレマイオスとセレウコスの部隊が宮殿の中をくまなく探したが、しかしアマストリーはいない。

「やはりさらわれたのだろうか。」

あり得ることだ。

アーリアブルダナは、王妃姉妹、ラオクシュナとアマストリーを誘拐しようとしていた。アーリアブルダナはラオクシュナを、一味の者がアマストリーをさらう手はずだったのかもしれぬ。うまくゆかぬ場合は殺害するつもりだった。

アマストリーはもう敵の手にかかって死んでいるかもしれぬ。

私は、アーリアブルダナが王を狙っていることを知っていた。王ばかりでなく、王女もまた狙われていることに、気づくべきだった。

もしアマストリーが死んだら。

私にも責任がある。

「ここアパダナの中にいないということは、インシューシャナクにいるのではないでしょうか。」セレウコスがぽつりとそう言った。
「神殿に?」
「ええ。」
「散歩してるだけなら、そんな遠くへは行くまい。ともかく行ってみよう。」

私とセレウコスは急いで神殿に向かった。

インシューシャナクは焼き煉瓦作りの多層塔で、複雑な構造の階段と回廊が取り巻いている。屋根も無く、屋根を支える柱も、壁もないから、アパダナではない。そう、メソポタミア平原にはよく見られる、天空と地上をつなぐ、ジグラットと呼ばれる塔だ。エジプトのピラミッドみたいにとんがってない。そう、バビュロンのエテメナンキに似ている。ここにはもともと自然の丘があった。その丘をそのまま煉瓦で固めて四角いジグラットに仕立てているのだろう。

「アマストリー。いるか。返事をしてくれ。」「アマストリー。」
「エウメネス?」

塔の上のほうから返事があった。

「無事か?」
「どうしたの。こんなところへ。」
「そりゃこっちのセリフだ。死ぬほど心配したよ。一大事だったのだ。」
「何があったの。」
「敵襲だ。ラオクシュナが、君の姉が狙われたんだ。」
「姉さんが?なぜ。」
「理由を説明しているヒマはない。君も狙われている。さあはやく避難するんだ。」

ちょっと沈黙があった。

「いいえ。私はここにいます。」
「どうして。」
「だって今、とても良いところよ。」
「何が。」
「ザグロスに月が昇り始めたわ。ゆっくり、ゆっくりと。」
「えっ。月?」

私も東の空を見た。ザグロスの山の端を、レモンのような形をした、少し赤みがかった下弦の月が離れようとしていた。

振り返れば、メソポタミア平原の上を、海からアッシリアのほうへ、月の光に照らされて静かに雲が流れていく。

「アマストリー。わがままを言ってる場合じゃない。みんな君を心配しているんだ。」私はいつの間にか彼女を呼び捨てにしていた。

敵兵が物陰に隠れてはいないか。

しかし、月が高く空に昇るにつれて、月はますます白く煌々と輝きだして、月明かりに照らされて辺りには人っ子ひとり、隠れる場所などない。

私はとたんにほっとした。
なんだ。夜中に散歩しただけか。
驚かせやがって。アマストリーのやつ。

セレウコスが私に言った。「大丈夫。ここは我らが守ります。王にも報告します。あなたはアマストリー様についていてあげてください。なに、彼女を探すのに少し手間取りましたが、ただ散歩してただけで、敵は一人もいませんって報告すればいいだけですよ。」
「いやしかし。」
「ねえ、エウメネス。あなたと彼女が二人きりで話ができるのは今夜が最後です。明日彼女はクラテロスの妻になります。最後の夜くらい、あなたが彼女といてあげるべきではありませんか。」
「セレウコス。」そんなことをして彼女がよろこぶだろうか。

「アマストリー。そっちへいくよ。」
「こないで。」
「大丈夫。私一人で行くから。」

私は煉瓦積みの階段をゆっくりと登っていった。

インシューシャナク。スーサの主、エラム人の神よ。
これまでにどれだれの民族がこの土地を征服し、支配し、そして交替していったか。
ジグラットの頂きは平らな四角い祭壇になっていた。
アマストリーは祭壇のふちに腰掛けて、月を見ていた。
彼女は私をちらとみて、また月を見た。
私は彼女の隣に腰掛けて、しばらく二人で黙って月を見ていた。
時間が過ぎ去っていくのを感じる。
アマストリーは目を閉じていた。
インシューシャナクよ。
私は月に白く照らされた彼女の横顔を眺めながら、身勝手にも神に祈らずにはいられなかった。
インシューシャナクよ。彼女に幸せを与えたまえ。
明日もまた今日と同じように、ザグロスに月は昇るだろう。
でも今日という日はもう二度と戻ってこない。

アーリアブルダナの首はクラテロスの屋敷に投げ込まれた。
翌日、歴史に残る大結婚式がスーサのアパダナで盛大に挙行された。
ラオメドンは一命を取り留めた。