閉じる

テオドーラ

ミカエルのもとに、ヴェネツィアからドメニコ・セルヴォが参内する。彼をヨハネスが王宮に招待したからである。ヴェネツィアは今や東ローマにとって唯一信頼おける同盟国である。ドメニコはコーンスタンティノス帝から、さまざまの特権を認める金印勅書を授けられた功績により、1071年にヴェネツィア元首となっていた。東ローマ首都の新市街ガラタの金角湾岸は、すべてヴェネツィアの治外法権の居留地として与えられていた。彼が謁見の間に入ると、ドゥカス・ファミリーが勢揃いしている。家族きりの晩餐会が催され、その席で、

「セルヴォ殿、よくまいられた。今日お呼びしたのは、実は私的なご相談でして。」

そう切り出したのは、皇帝ミカエルではなく、叔父ヨハネスだった。

「はて。私的とは。」
「ええ。実は我が甥ミカエル帝には、叔母が一人、姉妹が二人おり、みなまだ、相手が決まっていないのです。」

ドメニコは改めて彼の周りに居並んだ彼女らを見回す。

「これはこれは。お三方とも、お美しい。」

ドメニコの隣に座っていたアンナは、皇帝の叔母で、ドメニコのグラスにワインのお代わりを注いだ。ミカエルの上の妹テオドーラはパンのお代わりをとってやった。下の妹ゾーエーは少し離れたところでにっこりした。ドメニコは三人に目礼した。

「それで、セルヴォ殿は先頃奥方を亡くされて、新しい奥方を捜しておいではないかと、勝手ながら拝察いたしましてな。いかがですか。セルヴォ家と、我がドゥカス家と、親戚づきあいなさるおつもりはありませぬか。」

ドメニコは、ただちにすべてを察した。東ローマはヴェネツィアを必要とし、ヴェネツィアもまた東ローマを必要としている。利害の一致する二つの国の元首どうしが婚姻関係を結んで、より親密になりましょう、ということだ。

「なんとも身に余る光栄です。ローマの皇女との縁組を、この私のようなものにお許しになるとは、思いもよりませんでした。しかし、私は妻を亡くしたと言っても、もう50を過ぎております。いまさら新しく妻を迎えようとは、考えてもおりませんでした。私のようなものの妻になっても、よろしいのでしょうか。

それに、こう申し上げるのもなんですが、我がイタリアというところは、何もかも、このギリシャに比べますと文明も遅れておりまして、その、お嬢様方には、何かと不便を感じることにもなりかねないとぞんじあげます。」

ドメニコは一応そのように遠慮してみてから、ドゥカス家の面々の顔色を伺ってみたが、3人の女性たちも、また皇帝ミカエルも、その表情は空疎であって、真意を伺い知ることは困難だ。

「この非常の折でもあり、再び国家元首のセルヴォ殿が我がコーンスタンティヌポリスにおこしになるのはいつになるかもしれません。いかがでしょうか。3人の中から今すぐにも誰か1人お選びになって、挙式を済ませた上で、ヴェネツィアに妻としてお連れになると言うのでは。なあそうだろう、ミカエル。」

ヨハネスは形だけ、ミカエルを立てた。

「そのとおりだ、ドメニコ。今すぐに、決めていただきたい。」

急な話だ。しかし、向こうは乗り気だし、こちらは断る理由が全くない。気がかりなことがあるとすれば、妻となる相手の本心くらいだろうか。アンナはすでに39才。ドメニコと年は一番近いが、婚期を逃してしまっているし、容姿も劣る。かわいそうだとは思ったが、ドメニコは彼女を除外した。テオドーラは26才、コーンスタンティノスの前妻が死ぬ直前に産んだ子だ。適齢期は過ぎているが、年老いたドメニコにはふさわしいと言える。ゾーエーは13才、やや若すぎる。彼女の将来を思えば、妻とするのはむごい。あまり選択の余地はなかった。

ドメニコは、テーブルを挟んで真向いに座る、美しいが、ひどい巻き毛で、にきびざかりで、茶色な瞳のテオドーラの顔を見つめ、彼の射るような視線を感じて、テオドーラはその意味を察した。

テオドーラはすっと背を伸ばして端坐したまま、瞼を閉じ、テーブルの下で手を組んで、祈り始めた。

《お母様。セバストポリスにいらっしゃるお母様。私の心の声が聞こえたら教えてください。どうやら、ヨハネスとミカエルにつれてこられた、今日初めて会うこの男の人は、よりによって私を結婚相手に選んだようです。かっこいい人ですが、お父様と同じくらい年寄りです!
あんまりです。なぜ私はこの人と結婚しなくてはならないんですか。私はこの人と結婚して、幸せになれると思いますか。》

しかし、懐かしい母エウドキアの声は、テオドーラには届かなかった。

《ああ、アレクスィオスさん。私はずっと、あなたと結ばれるのではないかと思っていました。あなたと、あなたとの間に生まれた子供たちといっしょに、明るく楽しい家庭を築きたいと、夢見ていました。でも、それは私たちの運命ではなかったみたいです。とても悲しくて、残念です、今すぐ死にたいくらいに。》

アレクスィオスに自分の心の声が聞こえて、今この場に、彼がテオドーラを救いに飛び込んでくるのじゃないか、この結婚に異議を申し立ててくれるのではないか、という妄想に、しばらく彼女はふけっていた。しかし誰もやってはこなかった。

《神様。もしいらっしゃるのなら、私にお答えください。これが私の運命なのでしょうか。私はこの人と結婚するために、この世に生まれてきたのでしょうか。》

やはり、テオドーラには何も聞こえなかった。

真っ暗な絶望が彼女の心の目を開いた。

テオドーラはそのとき悟った。忽然と悟った。母エウドキアも、その母も、そのまた母も、みなこうして結婚していったのだと。自分の意思や愛情とは関係なく、男に与えられたのだと。

テオドーラは目を閉じたまま涙を流した。

ドメニコはテオドーラが不憫だった。

この子はおそらく私を拒んでもいないが、しかし受け入れてもいない。

もう少しこの娘と語り合って、お互いを知ったうえで結婚できればまだましなはずだ。しかし、彼女は皇帝の娘で、自分は国家元首。そんな悠長に愛をはぐくんでいるヒマはない。今この場で愛の言葉を彼女に語りかけるのも滑稽なだけだ。

むごいようだが、今決断するしかない。

「陛下。これから、あなたを我が兄と呼んでもよろしいでしょうか。」

「ええ、喜んで、」ミカエルは冷ややかな目つきで、そう答えた。

そうして、ドメニコはテオドーラとコーンスタンティヌポリスで盛大な挙式を執り行う。妻に選んだテオドーラは皇女の王冠を兄ミカエルから授けられる。

ドメニコはテオドーラを伴って、海路ヴェネツィアに向かう。

アドリア海沿いに点在する、ヴェネツィアの町に寄航するたびに、テオドーラはそのどれもがみすぼらしくて、落胆した。テオドーラは思った、これは辺境の漁村、或いは、軍港。本国のヴェネツィアの町は、聞くところによれば、ラグーナの上に作られた、美しい「水の都」であるという。その建築様式も東ローマさながらの壮麗なものであるという。実際、ヴェネツィアの軍船は、東ローマのものに負けず劣らず立派なものであった。夫ドメニコは、軍艦の上で美々しい軍服に身を包んだ紳士であり、年の差はずいぶんあるものの、時間をかければ、自分の夫として彼に満足できるのではないかと思う。ギリシャの貴族や軍人にはない男らしさというものを、テオドーラはドメニコに感じた。そして、きっと本国のヴェネツィアは、自分にふさわしい、活気にあふれた文明的な町なのだろう、テオドーラはそう考えることにした。

「テオドーラ。ごらん、あれがヴェネツィアだ。」 ドメニコはテオドーラの手を取って船首に導き、水平線を指さす。
「どこ?」テオドーラには一面の海しか見えない。
「あそこだよ。」
「もう見えてるの?」
「うん。」
「私には見えないわ。」
「それはきっと君が、毎日部屋の中で本ばかり読んでるからじゃないかな。」

本。そう。文芸好きな母の影響で、テオドーラも本を読むのが好きだった。

「海の男たちには見えるの?」
「そうさ。もうじき着くよ。」
「あとどれくらい?」
「そうだね。二時間くらいかな。」
「そう。」テオドーラの胸中で、やっと船旅から解放されるという喜びと、一生住まなくてはならないヴェネツィアの真実の姿を見る不安とが入り交じった。
「ヴェネツィアに着いたらすぐにバシリカ・ディ・サン・マルコ(サン・マルコ聖堂)へ参詣し、そこの司教に、私たちが結婚したことを報告するよ。」
「サン・マルコ聖堂?」
「ああ。」
「それって、ヴェネツィアで一番大きくてきれいな教会?」
「そうだよ。」
「いつ頃建てられたものなの?」
「はて。いつでしたかね。二百年ほど前ではないでしょうか。ヴェネツィアが独立した海上の国家として承認されたのが、ちょうどその頃です。」
「二百年前に何があったのかしら。」
「ふむ。当時、フランク王国にカール大帝が出て、東ヨーロッパやイタリア半島まで進出してきた。カール大帝は征服したイタリアの領地を教皇に寄進して代わりに教皇にローマ皇帝として戴冠された。こうして教皇はイタリアの大領主の一人となり、西ローマと東ローマが対立する構図が生まれた。カール大帝やその子らは東進してバルカン半島に入ろうとした。東ローマ皇帝ニケフォロス1世は飽くまでもカールがローマ皇帝に即位したことを認めなかった。
東西ローマの全面対決になるかと見えたが、カールはすでに老い、自らの死期が迫っていることを知っていた。カールはニケフォロスからもちかけられた和議を受け入れ、まもなく死んだ。」
「知ってるわ、それがフランク王国のカール大帝と、ローマ皇帝ニケフォロス1世の間で結ばれた和平協定、パクス・ニケフォーリね。」
「うん。この結果フランクはバルカンから撤退し、アドリア海沿岸の島嶼やコルシカ、サルディーニャ島などは従来通りローマ領と定められた。詳しいね。そのときヴェネツィアは正式に、ローマ帝国の保護下にある独立国家として承認されたのさ。」
「フランク王国ではなく?ローマの?どうして。」
「ヴェネツィアはね、陸の、特にローマ教皇の影響から逃れるために海上に作られた都市だからね。フランクは教皇と結託して領地を拡大した。ヴェネツィアはいきおい、ローマの支援を受けて独立を維持しなきゃならなかったのさ。」
「その独立を記念してサン・マルコ聖堂を創建したのね。マルコさんって聖人?」
「使徒ペテロの弟子、マルコの福音書を書いたマルコさんさ。」
「あれ。パウロの弟子じゃなかったかしらマルコさんは。」
「どちらでも同じようなものだよ。」
「でもそのマルコさんと、ヴェネツィアにどんな関係が?」
「記録にも残ってない古い言い伝えによれば、ここヴェネツィアに最初にキリスト教を伝道したのがその聖マルコだというのだよ。ヴェネツィアの守護聖人はマルコだと。しかし何も証拠がない。そこでヴェネツィア人は一つのエピソードをこしらえたんだ。聞きたいかね?」
「ええ。船旅の退屈しのぎにはちょうど良いわ。」
「昔々、レオ5世がローマ教皇の時代に、我が国の船乗りがエジプトの沖合で嵐に遭って、当時イスラム教徒が支配していたアレクサンドリアの港に逃げ込んだ。当時我々は、教皇の許しがなければ異教徒と交易することは禁じられていたんだが、緊急避難措置だからってことで、イスラムの世界でしばらくご厄介になることになった。
港の近くに聖マルコの墳墓があった。
マルコは、4人の福音記者エヴァンジェリストマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの一人にして、アレクサンドリアを拠点とするコプト正教会の初代総主教でもある。
その墳墓に、ブオーノ・ダ・マラモッコとルスティコ・ダ・トルチェッロという船乗りが毎日のようにそのお墓にお参りしていた。その近所に教会があってそこにテオドーレという司祭と、スタウラキオスという坊さんがいて、聖マルコの墓守をしていた。テオドーレはヴェネツィアの船乗りたちに言った、「アッバース朝第7代ハリーファのアル・マアムーンが、我らの聖マルコ墳墓を取り壊して、新たにモスクを建てようとしている。だからあなた方が聖マルコの遺体を持ち出してほしい。あなた方が嵐でここに避難したのも、すべては神の思し召しだ、」とね。そこでマラモッコとトルチェッロは聖マルコの遺体を船に乗せてヴェネツィアに持ち帰り、安置して祀ったと。」
「それがサン・マルコ聖堂の由来ってわけね。」
「ああ。」
「ものすごくうさんくさい話ね。どうせ作り話でしょ。」
「そうだな。イタリア人やフランク人はこんな話はでっちあげないだろう。おそらく似たような話が東ローマではいくらでもあって、そのバリエーションの一つが、ヴェネツィアで採用された、ってところだろうね。」

そんな歴史話をしているうちに船はヴェネツィアを貫流するジューデッカ水路に入り、サン・マルコ聖堂前の桟橋に接岸した。

ヴェネツィアに降り立ったテオドーラは自分の期待が完全に裏切られたことを知った。そこは今まで見てきたヴェネツィア領の港町と、大差なかった。葦原の中の寒村という表現がぴったり。東ローマ沿岸でも、ずいぶん田舎の方で見られる貧相な村落と同じだ。

目の前に建っているサン・マルコ聖堂とやらは、木造に漆喰を塗って派手な彩飾を施しただけの張りぼてにすぎなかった。礼拝が住むとドメニコは妻を聖堂の隣、運河に沈みそうな低地に建つ掘っ立て小屋に連れ込んだ。これがパラッツォ・ドゥカーレ(ドゥカーレ宮殿)、つまりヴェネツィア総督の公館なのだという。

テオドーラはまたしても絶望の奈落に突き落とされた。

ドメニコは愛妻を待たせた我が家にはめったに帰ってこなかった。たまに自宅で軍服を脱いでくつろぐドメニコは、しかしどこかの漁師の親父のようだ。いつまでたっても自分の夫だとは思えない。

テオドーラは今すぐコーンスタンティヌポリスに帰りたかったが、ヴェネツィア元首の妻という身分がそれを許さない。

当時のヴェネツィアは一点豪華主義だった。軍船や軍事費には湯水のように金をかけたが、その分、都市開発はぞんざいだった。ヴェネツィアの男子は軍船に寝泊まりし、地元に安住することを恥じた。ヴェネツィアが「アドリア海の真珠」のように飾り立てられるのは何百年も後のことである。

テオドーラはヴェネツィアで、その余りの文化の程度の低さに憤慨する。国家元首夫妻として晩餐会に臨席しても、その宮廷料理のお粗末なことといったら。ヴェネツィア人は、フォークを使わない。ナイフで肉を切り刻んで手づかみで食べるのだ。フィンガーボウルもナプキンもない。手づかみで食べたその手をねぶりながら食べるのだ。なんたる野蛮人。それから、室内を照明するロウソクというものがない。食卓にも、壁にも、天井にも。わずかに暖炉の火を明かりにして、夕食をとるのだが、暗くて仕方ない。コーンスタンティヌポリスの一般市民ですら、室内でロウソクを使い、みな料理はナイフとフォークを使って食べる。手が汚れたらフィンガーボウルで洗い、ナプキンで拭く。テオドーラは、即刻故郷から家財道具一式とともに、大工や服飾職人、調理人、その他の従者らを派遣させる。彼女は身の回りにギリシャ人の給仕や執事だけを侍らせた。その費えはむろん夫のセルヴォ家が賄ったが、ヴェネツィア市民の目には、常軌を遙かに超えた浪費と映った。

屋敷もギリシャの大理石建築に比べれば、木造で、掘っ立て小屋同然だ。何かのフレスコ画が描かれ、が剥げ落ちてまだらになった壁をみるたびぞっとする。キラキラと輝くモザイク画がなつかしい。

食事はまずくて臭い。当時のギリシャ料理の水準は、世界最高。悠久の古代オリエントの美食文化を継承している。イタリア料理やフランス料理が世界のグルメたちに珍重されるのにも、まだ何世紀もかかる。

テオドーラはヴェネツィアの暮らしのすべてについて、不満をぶちまける。いつまで経ってもイタリア語を覚えず、ギリシャ語だけでギリシャ人の従者とだけ会話する。夫のドメニコは、ギリシャ人の生活様式を知っていたから、妻に同情的だったが、ヴェネツィア市民は、この新しい元首夫人を憎んだ。たまに社交界に夫とともに現れる彼女が、余りにも高慢で気位が高く、ヒステリックな浪費家に見えたからだ。

テオドーラは夫ドメニコに命じた。

「こんな家にはもうこれ以上住んでられない。隣の聖堂を公館に改造して。」
「しかし聖堂が無くては困る。それにあれは、建てたばかりの新築で。」
「聖堂はこの公館跡に建て直せばいい。」
「なんだって?」
「宮大工は私がコーンスタンティヌポリスから呼び寄せてあげるから。聖使徒聖堂付きの大工たちが腕によりをかけてくれるわ。」
「しかし、我が国にはそんな工賃は無い。」
「ねえあなた。このみすぼらしい町を、コーンスタンティヌポリス並の都市に造り変える。それこそが、私を妻としたあなたの使命じゃなくて?あなたの名前で、歴史に残る建造物をこの国に残すのよ?あなたにとっても、名誉なことでしょ?」

ある日、アレクスィオスが乗った船がヴェネツィアに寄港した。彼はテオドーラのようすを見てくるように、ヨハネスに命ぜられていた。

ドメニコは不在だった。テオドーラに謁見を求めたとき、彼女は例によって、給仕らを従えて一人で食事中であった。テオドーラは、アレクスィオスが自分に会いに来たと聞いて、その姿を目の前にして、一瞬、自分は今ベッドの中で寝て、また彼の夢を見ているのではないかと錯覚した。

「テオドーラさん。久しぶりですね。」

そう昔のように親しげに声をかけようかと思って、しかし、彼は口調を改めて言った、「ドガレッサ (元首妃) テオドーラ様。大変ご無沙汰いたしました。ローマ皇帝のご下命により、ご機嫌を伺いに参りました。」

アレクスィオスは彼女のそばに歩み寄り、昔いつもふざけてそうしていたように、膝をつき、手をとって口づけをした。

テオドーラの目の前に跪いたアレクスィオスの背中があった。彼女は手にもったナイフを彼の背中に突き立てようかと思った。夢だったらきっとそうしていただろう。しかし現実だった。悔しさに目が眩んだ。

彼女は手にもったナイフを彼の背中に落とした。それはすべって床に落ちた。彼女はアレクスィオスの頭をわしづかみにして、男のくちびるに口づけた。

「アレクスィオス。私をつれて逃げて。私はもう限界なの。」

彼女の告白は、唐突ではあったが、身に覚えのないことでもない。アレクスィオスもまた、漠然と、自分の結婚相手はテオドーラなのではなかろうかと予感していたことがある。彼女の父コーンスタンティノスもアレクスィオスを気に入っていたし、彼女も彼にひそかに憧れていた。その気持ちを知らなかったわけではない。仲の良いドゥカス家とコムネーノス家の子女。テオドーラのままごと遊びにつきあってやったり、恋人どうしのふりをしてふざけあったこともある。ほんとうに恋に落ちて結婚していてもおかしくなかった。

ただし、子供の頃からアレクスィオスには、さまざまな皇女や貴族の女たちが勝手に懸想してくるので、彼は自然と女性に対して慎重になった。だれか特定の女性と深い関係になるのを用心深く避けていた。

もしドメニコがテオドーラを選ばず、アンナかゾーエーを選んでいたら。自然の成り行きで、アレクスィオスはテオドーラを娶ることになったのではなかったか。

《私がこの幼なじみの女を不幸にしたのだ。私のせいだとは、言えないかもしれないが。》

彼女の涙を見ると、ふと、この女と、恋に生き、恋に死んでもいいような気になる。しかしその気持ちは単なる同情なのだろう。「不倫」「駆け落ち」「亡命」「廃嫡」。いろんな不名誉な単語がアレクスィオスの頭の中で駆け巡る。この身を滅ぼしてまで、私は彼女を救わねばならないのか?そしてそれは果たして彼女のためなのか?

アレクスィオスは重い彼女の体を引きはがして言う。

「ですが、ドガレッサ・テオドーラ。私は軍務中の身で、」

テオドーラはアレクスィオスに再び口づけてその言葉をふさぐ。

「わかってます。もう、何も言わなくてもいいです。これ以上何も言わないでください。ああ。愛しい私のアレックス。あなたを殺したくなるから。」

テオドーラはヴェネツィアに来てわずか8年、34才で衰弱しきって病死する。

サン・マルコ聖堂で国葬が催された。彼女が造営を命じた聖堂はまだ建築の途中だった。

聖堂前の広場に参列したヴェネツィア市民は誰も彼女に同情しなかった。傲慢なギリシャ娘が「神罰」を受けて、「贅沢病」にかかって死んだと噂したが、現代人の感覚で言えば、余りの未開地に来てそのストレスとホームシックのために死んだのだろう。

夫のドメニコも、妻のヒステリーが元で死期を早めたのかもしれない。彼も妻を追うようにして、翌年老衰で死に、妻とともにサン・マルコ聖堂に葬られた。新しい聖堂が竣工するのはその十年以上後である。

食卓でフォークを使う習慣は明らかにギリシャから発してイタリア、そして西ヨーロッパ各地に広まっていった。テオドーラはその先駆者にして犠牲者だったのだ。

エウドキアは、テオドーラの訃報を聞き、彼女をドメニコに与えたことを悔んだ。もちろんテオドーラとドメニコの結婚には、エウドキアの意向が反映されたのではなかったのだが、反対することくらいは、出来たかも知れなかった。エウドキアは、亡夫の連れ子ではあったものの、自分の娘を親の都合で犠牲にしたのだ。