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序章: エウドキアとミカエル

穏やかに晴れた朝、エウドキアは庭先の丸石に腰を下ろし、ブルトゥスが故郷の海とじゃれているのをぼんやりと眺めていた。

打ち寄せる波を追いかけ、追われて、砂の上に点々と残された彼の足跡は引いていく潮の流れに均(なら)され消えていく。浜の端から端まで駆け回っては、飼い主の元に走り寄り、濡れた前脚を着古したスカートになすりつけ砂だらけにしたかと思えばまた、飽きもせず走り去っていく。

この小さな内海は、黒海とエーゲオ海に通じている。波静かに見える日でも、沖には恐ろしい速さの潮流が流れている。この流れはただ月の引力で潮が満ち引きするから起きるのではない。寒冷で湿潤な東欧の林野に降る雨水が、ドナウ、ドン、ドニエプルなど大小さまざまな河川へ流れこみ、いったん黒海に貯まり、そのただ一つの出口であるボスポラス海峡からプロポンティス海へ、さらにヘッレースポントス海峡を抜けてエーゲオ海へと抜ける。だからこれらの海峡は、地中海に注ぐ一つの大河のようなものなのである。

コーンスタンティヌポリスの浜では、夏になると、毎年必ず何人かの子供らがおぼれる。その遺体が岸に打ち上げられることはまれだった。

あれも、暑い夏の日だった。母はエウドキアを連れて、灼やけて乾いた砂地を横切り、浜辺にサンダルを二人並べて脱いで、裸足で海に入った。

母はエウドキアを片手で胸に抱いて、立ち泳ぎで足のつかぬ沖合まで泳ぎ出て、言った、「おまえはこのプロポンティスのあぶくから生まれたのだよ。」

エウドキアが今も覚えている一番古い記憶だ。

母はエウドキアを波の上に寝そべらせて、海に浮かせた。仰向けになって空だけが見えた。太陽がまぶしくて、自然と目を閉じた。

「ほら、自分一人で浮いたでしょう。」

母がこのまま自分を海に捨てるのではないかと、恐ろしかった。もちろん、そんなことはなかった。母も彼女の隣で、ぷかぷか仰向けに浮いていた。そうやって、しばらく母娘で漂ったあと、母は彼女を岸に連れ帰り、体を拭いてやった。

母はエウドキアにいつもやさしかった。いつもやさしくほほえんでいた。

「母は、私が海の泡から生まれたと言ったわ。どういう意味だったのかしら。」

夜通しランプの灯りで物書きをして、柔らかな日差しの下、潮風に当たりながら疲れた目を休めようと家から出てきたミカエルに、彼女は尋ねた。彼は、物憂げにたゆたう海のおもてを眺めながら、エウドキアの母、つまり自分の実の姉の、幸薄い人生を思い返さないわけにはいかなかった。

姉は夫に捨てられた。なぜか。我が家が貧乏だったからだ。もともと由緒ある貴族の家系だったケールラリオス家は、父の代に、経営に失敗して、膨大な借金を抱え込み、没落した。姉の夫のマクレンボリティス家もまた、似たような没落貴族の裔すえであった。彼は、新しい裕福な女を選んで去っていった。こんなことは世間にざらにあることなのかもしれない。今更、姉の人生を憐れんだところで、仕方がない。

ミカエルは若かりし日の姉の面影をエウドキアに見て、顔を曇らせ答えた。

「それはきっと、おまえが泡あわの女神アフロディーテーのように美しいと言いたかったのだと思うよ。」

半分は、母を亡くした彼女への慰め。残りの半分は、単なるお世辞ではなかった。身内のミカエルでなくても、母譲りのそのたぐいまれな美しさを認めるだろう。

ミカエルは、町の学校で神学や神話、歴史などを教えた。彼が13才になったエウドキアらにコイネー(ヘレニズム時代の国際語で、新約聖書などが書かれた古典ギリシャ語)の文法を教えたところ、エウドキアは格・性・数・法・人称・相などといった難しくもややこしい文法を正確に暗記して使いこなし、まるで現代語のようにすらすらと話したので、ミカエルも舌を巻いた。エウドキアはさらに古代ギリシャ語も独学し、ホメーロスの『イーリアス』『オデュッセイア』、ヘーロドトスの『歴史』、アッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』などを原著ですらすら読みこなした。15才になった頃から、彼女は誰に見せるというのでなく、コイネーで書いた書き物を書きためていたのだが、あるとき叔父にその一つを見てもらった。『Ιaσµιν(Iasmin ヤスミーン)』というタイトルで、マケドニアのアレクサンドロス大王とアケメネス朝ペルシャの王女ヤスミーンの恋愛物語だ。

その物語はだいたいこんな具合だった。マケドニア王アレクサンドロス3世は、ギリシャ本土を統一し、スィリアに攻め入って、敗走するペルシャ軍を追い、ダマスカスに残されたペルシャ王女ヤスミーンと恋に落ちる。王は西のエジプトに攻め入って滅ぼし、それでも飽きたらず、はるか東方のバクトリアやインドにも遠征する。ヤスミーンは王の軍に随行しようとするが、王は彼女を後宮に残して旅立つ。ヤスミーンが寂しく暮らしている間、王はバクトリアで、敵将の娘ロクサナを見初めて連れ帰る。

ペルシャに戻ったアレクサンドロスはバビロンでヤスミーンと再会するが、王はバビロンを新首都と定め、世界の王、王の中の王、アレクサンドロス大王として改めて即位し、ロクサナを正妃に立てる。もはや大王の寵愛を失ったヤスミーンが悲しみにくれる間もなく、大王はバビロンで死去するが、ヤスミーンはすでに大王の子を身ごもっていた。しかし大王の正妃ロクサナにうとまれたヤスミーンは、黒海沿岸の辺境の町に送られ、その町が戦乱で荒らされると奴隷に売られてしまう。ヤスミーンは奴隷商人の息子フィリッポスに気に入られてその妻となり、産み落とした子はフィリッポスの長男として育てられる。その息子は成長してロクサナが産んだアレクサンドロス4世に戦いを挑んで勝利し、マケドニア王フィリッポス3世として即位する。めでたしめでたし。

エウドキアにしてみれば、自信満々の戦争あり恋愛ありの、歴史超大作だったのだが、ミカエルは「ううん。まずくはないけど、なんか冗長で展開が退屈なんだよなあ」と酷評した。エウドキアは恥ずかしいやら腹が立つやら、もう二度と誰にも著作は見せないことにしようと思った。

エウドキアとミカエルの二人暮らしは、しごく単調に春夏秋冬が訪れては過ぎ、またたく間に時が流れていった。エウドキアには、これまでいくつも縁談の話が持ち込まれたのだが、何度かデートしただけで、彼女はいつも一方的に断って帰ってきてしまう。そのたびにミカエルは呆れた。エウドキアはこのままミカエルと一緒に、磯臭い老婆となって、一生を終えるのだろうと、漠然と考えていた。

しかしそんな判で押したような繰り返しの日々は突然打ち切られる。

「エウドキア、聞いておくれ。僕たちはもうこんな海辺の狭苦しい家に住む必要はないのだよ。今すぐ丘の上の大聖堂に引っ越すよ。」
「大聖堂?」
「そうだよ、ローマ人ならだれでも知ってる、地上で一番大きな教会さ。」
「げっ。もしかして丘の上の、あのばかでっかいお寺のこと。いったいどうしてあんなところに私たちが住むの、おじさん。」

大聖堂とは、コーンスタンティヌポリスの大聖堂ハギア・ソフィア。まぎれもなく世界最大のキリスト教建築(当時)である。

「だって僕はとうとう、パトリアルケース(総主教)に選ばれたんだから。」

《そういえば、叔父さんの職業は、お坊さんだったわね、ただの先生ではなく。》

「総主教。どこの。」
「もちろん、我がローマのだよ。コーンスタンティヌポリス総主教だよ。」
「ええっ。どうして。」
「どうしてもこうしてもない。お前も聞いたことくらいあるだろう。うちの家はこれまでに何人もここコーンスタンティヌポリスで総主教を出してきた、我がケールラリオス家はもともとそんな家柄なのさ。僕も総主教となるためにわざわざ子供のころからセバストポリスみたいな僻遠の修道院で修行したんだ。そしていよいよ僕に運が巡ってきたというわけさ。僕もいろいろと忙しくなる。さあ、エウドキア。君も忙しくなるぞ。」
「どうして、私まで忙しくなるの。」
「君は今や、総主教の姪、僕の養女なんだよ。君と結婚して箔を付けようってやつが、どんどん求婚してくるぞ。」

エウドキアは呆然とした。大迷惑だ。

「ねえ、ミカエルおじさん、二人でこれまでどおり、この海の家で一生いっしょに暮らす、ってことは、できっこないわよね。」
「なに馬鹿言ってるんだ、エウドキア。僕はほんとうに忙しいんだから、冗談はよしてくれ。」

アレクサンドリアやイェルサレム、アンティオキアなど、世界各地の正教会から祝辞を述べに使者がミカエルのもとに訪れ、その対応に彼はてんてこ舞い。ミカエルにはエウドキアに会う時間もない。代わりに赤の他人の執事と召使がつけられる。

「どうしよう。何をやればいいのか皆目わからないわ。」

彼女にはお金も娯楽もない。日常茶飯の雑事さえも取り上げられ、一日中何もやることがない。住むところも、豪邸とはいえ、とてつもなく大きな、がらんどうの牢屋に入れられたようなものだ。遊び相手も話し相手も、ブルトゥス以外にいない。大聖堂はなにしろ巨大で広い。周囲の庭園を一周するだけで小一時間はかかる。古代ローマの遺構がごろごろ転がっている一角の邸宅にエウドキアはただ一人。いきおい、愛犬ブルトゥスと大聖堂の周りの庭を散歩することだけが、彼女の日課となる。

「恐ろし気な、古びて大きな石だねえ、ブルトゥス。墓石かなあ。何かの像の台座かしらねえ。こんな山の上まで、どうやって運んできたのかしら。」

ブルトゥスが草の茂みでなにやら小さな生き物をみつけたようだ。さんざん追いまわしいじめている。それをエウドキアは、いつものように、ぼんやりと石の上に腰をおろしてながめている。

隣接するドゥカス家の屋敷にいた跡取り息子コーンスタンティノスが、そんなふうにして毎日自分のうちの前を通り過ぎるエウドキアの姿を見て恋をした。

「おお見よ、女神アフロディーテーが、犬を連れて神の園を散歩しておるぞ。誰かあの娘のことを調べてまいれ。」

使者はまもなくコーンスタンティノスに報告した。

「教会の番人に聞いたら、すぐわかりました。彼女は、つい最近、総主教に就任したミカエルの姪エウドキアです。父方はマクレンボリティス家。母方はケールラリオス家。いずれもギリシャ系の名族で、古くから何人も元老院議員や総主教を出しています。父は別居し、母はすでに死亡しておりますが、母方の叔父ミカエルが養父となって引き取り、二人暮らしのようです。年は22、未婚。」

「ふむ。家柄は申し分ないな。やや年をくっているのは気になるが、特に問題はあるまい。」

コーンスタンティノスの妻は初産で娘アンナを産んで死んでしまい、彼は十年以上も、残された一人娘と共に、悲しみにうちひしがれていたが、娘アンナにも励まされ、ようやく立ち直って、次の妻を探しているところだった。

《ほかの男にとられちまう前に、早くツバつけとかないと。》

彼はミカエルを通じて正式にエウドキアにプロポーズする。ドゥカス家は海運業を営んでいて、大金持ち。誰一人として裕福とは言えない、ケールラリオス家の親戚たちは、ミカエルも含めて、みなこの縁談に乗り気だ。

「この私がどうして成金のボンボンの後妻なんかに。連れ子までいるのに。」とエウドキアは愛犬ブルトゥスに話しかける。

会ってみて、話をして、いやなら断ればいいだけだ、いつものように。エウドキアはまったく気が進まなかったが、とりあえず彼とデートしてあげることにした。

叔父ミカエルは言う、

「おまえ、もう今までいくつも縁談を断ってきただろう。えり好みしてないで、早く結婚しろよ。このままじゃ嫁に行き遅れて、一生俺と、二人暮らしってことになるぞ。せっかく、俺が修道院から連れ出した甲斐がないというものだ。」

そんなことは、彼女も百も承知だった。

初デートはエウドキアの叔父ミカエル、コーンスタンティノスの娘アンナも付き添って、ギリシャ古典演劇、アイスキュロスの『アガメムノーン』を、丘の上の大理石で造られた半円形の劇場で、四人で鑑賞することになった。

「『アガメムノーン』って確か、娘を生贄いけにえに献ささげて勝った王が、その妻に復讐されるって話よね。これから結婚するかもしれない相手と見るには、あまりにも不吉だわ。」

「まあそういうな。」

むくれるエウドキアを見ながら、ミカエルは笑う。

「舞台の演目というのは、日によって決まっていて、選り好みできないんだから。デートの日取りだって先方は仕事でお忙しいのだから、無理を言うな。僕だって総司教という仕事に穴を開けて、いろいろやりくりして今日この時間を確保するのにどれだけ苦労したことか。毎日ぶらぶらしてるヒマ人はエウドキア、おまえだけさ。」

エウドキアはほっぺたをふくらませる。

「別に真面目に見ることはないよ。これはほんの余興。いちいち余興に特別な意味を考えるな。そろそろ上流階級の社交ってものに、おまえも慣れてもらわないと。」

コーンスタンティノスはエウドキアが想像した通りの男だった。さえない風貌の中年。その広いおでこをみれば遠からずつるつるのはげ頭になるのは確実だ。エウドキアにとって彼はそれ以上でもそれ以下でもなかった。こんな人と同じ屋根の下に暮らし、生涯連れ添い、彼の子供を産んであげるなんて。全く想像できない。

ミカエルはリブレットを読みながら真剣に演劇に見入っている。12才のアンナは、お菓子をぼりぼりかじりながら、ぼんやりと舞台を眺めている。隣に座ったコーンスタンティノスを横目で見ると、彼は一生懸命あくびを噛みこらえているようだ。

《もし私がこの男と結婚して、娘が生まれて、夫が戦いに勝利するために我が娘こを犠牲にしたら、私はこの男を許せるかしら。
娘を殺されたら、私も夫を殺すかもしれない。》

そんな邪悪な想念にとりつかれた彼女はあたりを見回してみる。真っ白な大理石で作られた、野外の舞台を取り囲む観客席には、恋人どうしや親子らが、食い入るように劇の進行をみつめている。ギリシャの、平和に澄み渡った青空の下で。

やがて演劇は、そのクライマックスの、アガメムノーンの妻クリュタイムネーストラーが、夫を殺害する凄惨な場面を迎えて、終わった。劇が終わっても、クリュタイムネーストラーが手にした両刃の斧の先端から、血が滴り落ちている。豚か、牛の血だろうか。観客席では、さめざめと泣いている人もいる。

しかし、血まみれで舞台に横たわっていたアガメムノーンがむっくりと起き上がり、顔の血糊をぬぐい、妻役の女といっしょににこやかに笑いながら、観客に手を振ると、みんな泣きながら笑い始めた。コーンスタンティノスも、ミカエルも拍手する。アンナは相変わらずぼりぼり菓子をかじっている。愛想もかわいげもない、肥満した少女だ。エウドキアだけが、一人憮然と押し黙っている。

四人はそれから、プロポンティス海に長々と突き出た桟橋で、タラバガニとワタリガニの塩茹でを食べた。もちろんコーンスタンティノスのおごりで。

ウェイターが次々にゆでたての蟹をに金盥かなだらいに入れて運んできてはテーブルの上にぶちまける。その腕や甲羅を木槌きづちで砕いて、食べ残した殻だけを金盥の中に戻して棄てる。

アンナはさっきあれだけ菓子を食べておきながら猛然と蟹をむさぼり始める。エウドキアも負けじと蟹に食らいつく。

ミカエルとコーンスタンティノスは、二人してブドウ酒の瓶を何本も開けて、意気投合している。

「ケールラリオスさん、あなたはたしかお嬢さんの母親の弟さん、でしたな。」
「そうです。彼女の叔父です、ドゥカスさん。」
「私がお嬢さんと結婚したら、私もあなたをミカエル叔父さんと呼ぶことになります。」
「年の若い叔父さんですね。」

ミカエルは苦笑する。

「失礼ですが、御年はいくつですか。」
「37才。」
「おや。では、オオカミ座とケンタウルス座の間に新しい星が生まれた年のお生まれですな。」
「ええそうです。親からそう聞きました。よくご存じで。なんでも金星よりずっと大きく、明るさは半月ほどもあったそうですね。」
「私だってその新星が夜空に輝くのを見たわけじゃありません。私もあなたと同じ年の生まれですよ。」
「へえ。奇遇ですね、あなたと私が同い年とは。」

コーンスタンティノスは、テーブルの向かいに座って、蟹の足にかぶりついているエウドキアに聞こえないよう、ミカエルの耳元に囁く。

「ミカエルおじさん、私は、お嬢さんと結婚して、男子が生まれたら、貴方の名前をいただいて、ミカエルと名付けたいと思います。」

ミカエルは困惑した。

「なぜ。」
「あなたが、エウドキアさんをいままで育ててくれた、そのことに私は感謝したいのです。」
「あなたの父親の名を、あなたの息子に付けないのですか。」

ギリシャ人は古くから、父や兄弟の名を息子に、母または姉妹の名を娘につける。従って男子の名は祖父か叔父に、女子の名は祖母か叔母に由来することが多い。後世、キリスト教徒は自分の名をそのまま子に与えるようになった。

「男子を多く授かったら、その一人に私の名を与えましょう。ですが、長男にはあなたの名をいただきたい。」

コーンスタンティノスにとって、名門貴族でコーンスタンティヌポリス総主教ミカエルを親戚としてその名を長男に付けることは、彼の名誉欲を満足させるものであったようだ。

「なるほど、光栄ですが、エウドキアがあなたを愛するかどうか、それは彼女の心の中の問題ですから、私には請け負えません。
この際ですから、私はあなたに申し上げたい。
私の姉は不幸な女でした。
私の姉のような苦労を、私はエウドキアにしてもらいたくない。そんな苦労をさせるくらいなら、私が一生あの子と二人で暮らしても良いと思っている。私はエウドキアを愛しています。私はあの子を守りたい。あなたは、私よりもエウドキアを愛することができますか。あの子を守ることができますか。
あなたは私に誓えますか。あの子を必ず幸せにしてくれると。あなたが、それさえ約束してくれれば、私は心安く、あの子をあなたに差し上げることができます。」
「必ず、必ずお嬢さんを幸せにします。私の命に代えて。あなたはエウドキアの叔父であり、育ての親なのです。ですから、あなたの名をわが息子につけるのは、至極自然なことではありませんか。」

海風がさわやかな午後。空高くトンビが旋回し、或いは低くカモメが舞って、人間たちの饗宴のおこぼれを狙っている。ミカエルがふと目の前を見ると、エウドキアとアンナは、あいも変わらず、蟹の足を取り合い、ほおばっている。コーンスタンティノスもミカエルの視線の先をみやりながら、言った。

「どういういきさつで、あなたの姪と二人暮らしをするようになったんですか。どのくらいの間、一緒に暮らしていらっしゃるのですか。」

ミカエルはコーンスタンティノスの瞳に、何か嫉妬のほむらのような灯が揺れた気がした。《なるほど、姪と叔父の二人暮らし。なにやら勘ぐられてもおかしくない。きちんと弁明しておかなくては。》

「まだエウドキアが幼いときに、彼女の両親は離婚し、姉と娘エウドキアの二人だけが残されました。その姉が死んだとき、エウドキアはまだ八歳でした。彼女の父マクレンボリティス氏には、すでに新しい妻がいて、夫人はエウドキアを引き取ることを拒みました。また、エウドキアにとっても、そんな継母の家庭に暮らすのはつらく不幸せなことだったでしょう。
ですので、私はそのときたまたま修道士としてセバストポリスで奉公しておりましたから、彼女を呼び寄せて、修道女にして、私が何かと面倒を見、勉強を教えてやることにしたのです。」

ミカエルは昔を懐かしみながらコーンスタンティノスに思い出話を聞かせてやる。

「セバストポリス修道院は、海に面した断崖に穿うがたれた洞窟の中にあります。東にはヤルタという漁港が、西の深く入り込んだ入り江にはセバストポリス軍港があります。いずれも古えからギリシャ人が入植した町で、住人はギリシャ人かルーシ。」
「ルーシ?ああ、ヴァリャーグのことですか。」
「ええ。」ルーシは今のロシア人。ヴァリャーグはヴァイキングのこと。「セバストポリスは北国にしては比較的温暖で、ごく暮らしやすかったけれども、何しろ目の前には海が迫り、背後には雪を頂く険しい山と深い森林、それ以外何もないので、エウドキアはいつも退屈そうでした。崖の上の墓地に登ってながめると、二つの港を出入りする船がひっきりなしに通り過ぎて、私は、エウドキアのつれづれを慰めるために、彼女の学友たちと一緒に、ときどきひなびた漁村のヤルタまで船に乗せて遠足に連れて行ったりしました。ヤルタには、彼女の故郷を思わせる白い砂浜もありました。
私はそこで、修道士や修道女らの初等教育を担当しておりました。エウドキアはその中にあって、一番聡明な子供でした。」

ミカエルは、いつまでもこんな監獄のようなところで、小学校の先生のような仕事を続けていくはずもなかったのだが、ともかくも彼は、エウドキアらと毎日を楽しく暮らしていた。

「セバストポリスは、自然の美しいところでした。しかし、身寄り無く一人で暮らすには、あまりに寂しいところです。」

ミカエルが25才になったとき、彼はコーンスタンティヌポリスの教会の司祭として召還される。ただ両親がいないというだけで、美しい姪のエウドキアを一人残して、一生修道女として、こんなへんぴな修道院暮らしをさせるのがミカエルには忍びなく、彼女を自分の養子にして引き取る。エウドキアは修道院から連れ出され、ミカエルとともに、セバストポリス港に着いた迎えの軍船に乗って、黒海を横切って、ボスポロス海峡からプロポンティス海に入った。

「エウドキアと私は、あの懐かしい海のほとりの家に戻ってきました。彼女が母と二人で暮らした家は、荒れ果て、板壁の朽ちた穴から隙間風が通り、床は半ば砂にうずもれていましたが、昔の場所にまだ建っていました。私は家の壊れた箇所を修理し、砂を掻き出して、二人でそこに暮らすことにしたのです。
魚臭い港町の粗末な家。晩ご飯のおかずは、いつも海草のサラダに、アンチョビかニシンの塩焼き。ニシンもアンチョビも、浜の地引き網漁で大量に獲れて、日干しにすると保存も利くから、タダ同然に安くて、しかも栄養があるのです。ほかに、貝のスープ。エウドキアはよく家の前で貝掘りをしたり、磯で小魚を釣ったりして、おかずの足しにしました。彼女が釣ってくるアジやハゼなどの稚魚を、私はオリーブ油でからっと揚げてやって、二人でおやつにして食べたりもしました。
エウドキアは野良犬を拾い、その子犬を彼女はブルトゥスと名付けました。ブルトゥスは餌に魚を与えると、喜んで食べるのだけども、骨ごと食べてしまうので、用心のためにニシンの背骨を抜いてやったり、もともと骨の無いイカやタコなどを、のどに詰まらぬほどの大きさに切って食べさせました。
二人と一匹の質素でつつましい生活。貧しいが、不自由な思いはしなかった。私はエウドキアを我が子のように慈しみ育てました。」

コーンスタンティノスは、興味深げに、時折うなずきながら聞いていた。

「このように賢く美しい女性に成長して、さぞ育てがいがあったことでしょう。」

その日四人はそのまま別れた。家に着いて、ミカエルは姪エウドキアに言った。

「おまえが、あまりにも無口に、一心不乱にカニの甲羅を、木槌とペンチで砕いては、身を食うので、俺ははたで見てて恥ずかしかったよ。」

カニを食べるときに無口になるのは、世界共通である。もしかすると、焼き肉屋と同じで、初デートにはあまり向かないかもしれない。

「だって生まれて初めてあんなごちそう食べたのだもの。あらっ、もしかして、私が貧乏人だって、ばればれだったかしら。」
「ドゥカスさんも呆れて見ていたよ。いいんじゃないか、別に貧乏がばれたって。向こうはそのくらいもうとっくに知っているよ。それにしても向こうの連れ子もずっと食い続けてたな。あれは貧乏とかじゃなくてただの食いしん坊だからだろうが。」
「ミカエル叔父さんからみて、あの人はどうだった?劇の最中、ずっとあくびしてたみたいだけど。」
「お忙しい方なのだよあの人は、多少は古典芸能に興味ある人でも、睡眠不足ではとうていああいう場では耐えられないよ。良い人だったじゃないか。鷹揚そうで。ああいう夫だと楽できていいぞ、きっと。金持ちってことはね、いいことだよ。貧乏だと、さきざき、」

子供ができてから困るよ、と、ミカエルは声に出しかけて、口をつぐんだ。

好きな人と苦労をするのと、大して好きでもない人と楽をするのと。二十代の乙女にとって、それは形而上学的命題よりも、難しいだろう。きっとプラトーンやアリストテレースだろうと、答えを出すことはできまい。

二度目のデートは、二人きりで、旧市街のバザールで買い物をした。真っ赤なワンピースのドレスを買ってもらった。

「こんなドレス、いったいいつ着れば良いのかしら。」

それまで貴族の社交場に一度も出ることがなかったエウドキアは、その高価なシルクのドレスを、居間で身にまとって、叔父ミカエルに見てもらいながら、正直とまどった。

「良く似合うじゃないか、エウドキア。そのうちいくらでも着る機会はあると思うよ。君が美しく着飾った貴婦人となって、宮廷の晩餐会に出席する姿が目に浮かぶよ。」

その次のデートは、金角湾の対岸の新市街、ガラタの丘のレストランで、ボスポロス海峡を行き交う船をながめながら、シーフードのフルコース料理を食べた。

「みてごらん、あそこがうちの船着き場だよ。」
「ふーん。」

どうすればこの目の前の娘に、自分から妻にしてくださいと言わせることができるか、少なくとも自分のプロポーズを素直に受け入れる気にさせるか、三度目のデートにこぎ着けてもなおコーンスタンティノスは思いあぐねていた。最初につれていった劇場もドゥカス家の経営であった。二度目は買い物がしたいというので、ドゥカス家御用達の高級店につれていった。今日連れてきたこの新市街はドゥカスの町と言ってよかった。なにしろドゥカスがこの界隈一角の、ほとんどすべての地主だから。このレストランだってドゥカスの店だ。

ドゥカス家は、この金角湾北岸、コーンスタンティヌポリス郊外の新興地を開拓して、新しい港湾都市を作り上げようとしていた。ヴェネツィアやジェノヴァと言った、さまざまな交易相手国の居留地も作られる予定である。

その事実を一つ一つ、この女に説明するのは野暮に違いない。この女には、そういう富や名声というものに何の興味もないらしかった。海辺のたった一つのぼろ小屋しかもたなかった娘が、何の造作もなく世界最大の寺院に引っ越した。彼女にとって人生とは、そんな具合に、極端から極端に振れるものなのだろう。だから彼が彼女の目の前にどんなに金を積んでみせようと、彼女の関心を引くことはできないのだ。

コーンスタンティノスはまた、自分自身に男性として、格別の魅力がないこともとっくに察していた。富という属性を取り除いた彼の実体はまったくシンプルな、無味無臭な存在だ、中肉中背、この中年太りのおなかも、逆に脂っ気のない薄っぺらな皮膚も。そう彼は自覚していたし、またもし異性がそこに、究極の平凡さというものに、気付きさえすれば、それこそが彼の美徳である、そう思い込もうとしていた。

海亀のスープを食べ終え、その亀の甲らを器にして、食後のデザートのフルーツ盛りが盛られて出て来ると、コーンスタンティノスはいよいよ話を切り出す。

「是非、僕の妻になってください。きっと幸せにします。」

一瞬、亡き母の顔と、よく覚えていない父の顔を、エウドキアは思い浮かべ、叔父のミカエルの顔も思い浮かべた。《あっちゃー。今日は亀食っちゃったしなあ亀。こないだは蟹もたらふく食ったしなあ。ドレスも買ってもらったし。ミカエル叔父さんが勧めなければ、3回もデートしたりなんか、しなかったのに。》

目の前に、金持ちのくせにいまいち風采の上がらない、アラフォー男の顔があった。

《年食ってるのは仕方ないとして、せめてミカエル叔父さんくらい頭が良くてかっこよければなあ。3度目の正直って言うしなあ。別に、今日無理に返事をしなくても、良いんじゃなかろうか。も少し待てばもっと良い縁談が舞い込むんじゃないかしら。もっと若くて、ましな男が。もう一度、叔父に相談してからでは、ダメかしら。》

でも、叔父ミカエルの言うことは、聞くまでもなく、もはやわかりきっている。

ドゥカス家が繰り出してくる、「こんなごちそう、俺ら毎日普通に食ってますよ」的な、圧倒的な物量攻撃にめまいを感じながら、《玉の輿、玉の輿、玉の輿。》と彼女は、心を落ち着ける呪文を唱える。

彼女は、コップの水を飲んでゆっくりとのどを湿らせてから、深呼吸して、伏し目がちにコーンスタンティノスに向き合って、答えた。

「謹んでお受けします。」

彼は、当然という顔で、にっこりと笑い、彼女の手をとって口づけする。エウドキアは、無念無想の境地を会得した。