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森の聖者

戦の無い日々が続いたため、王はいつものきまぐれをおこして、インド人の修行僧をマケドニアまで連れて帰り、ギリシャの哲学者と議論させてみよう、などと言い出した。インド人とギリシャ人と、どちらが屁理屈がうまいか。試してみようと。

 しかるに布令を出して応募してきたのは、子供のように小柄で痩せ細った老僧ただ一人であった。彼はパンジャーブの森に住み、木の葉と木の実しか食べず、ただ木の皮で作った腰蓑を巻いていた。白髪と白く長い眉毛を伸ばしっぱなしで、すでに七十才を過ぎていた。どう見ても、インドからヨーロッパまでの長旅に耐えられそうにはみえない。

 彼がカラノスであった。

「聖者よ、」王は僧を試みようと語りかけた、「神はいるであろうか。」

「王よ、」僧はまぶたを閉じたまま答えた、「神は不可知じゃ。神のみならず、すべてのことは不可知じゃ。神がいると考えるのも、神がいないと考えるのも、一面的な見方に過ぎぬ。従って神がいると考える者もいれば、いないと考える者もいる。」

「世の中のことはことごとく不可知か。死後の世界があるかどうか、前世があるかどうか、輪廻転生があるかどうか、魂があるかどうか。すべてか。」

「よろしいかな、王よ。もし死後の世界があったとしてもそれは人が想像しているものとはまったく異なるものかもしれませんし、神がいるとしても人が思い描く姿とは似ても似つかぬものでしょう。衆生が輪廻転生するとしても、その因果応報は我らの理解を超えたものに違いない。逆に我々が存在するとは思いもよらぬようなものが無数に存在しているかもしれぬ。所詮神と言い輪廻と言い、因果応報と言っても、それは人間が想像した以上のものではない。実態からほど遠いものじゃろうて。

 人はとかく、自分にわからぬことがあるのが嫌いじゃ。自分は物知りだ、何でも知っていると思いたがる。しかし、わからぬことをとことんまで調べて究明(あきら)めることは面倒臭がってせぬものじゃ。畢竟、わからぬことをすべてわかることなどできもせぬ。そこで人はわからぬことを「神」と名付けてそれで済ませてしまう。

 我々は決して無限に到達することはできませぬ。ただ、到達できぬ先を無限と名付けてそれで済ませてしまう。我々は無限の彼方にあるものを知覚することなどできませぬ。ただ名付けるだけじゃ。我々はただ身近にあり、具体的なものを知り得るだけじゃ。それ以外の者を知ろうとしたり知ったつもりになるのが可知論であり、その真逆が不可知論であって私はそのどちらでもありませぬ。」

「ふむ、そなたは可知も不可知も合わせて無視するか。では聖者よ、あなたはなぜ殺生を忌むのか。なぜ木の実と木の葉しか食べず、木の皮しか身にまとわないのか。殺生が悪しきことだからではないのか。或いは悪しきこととは言えないのだろうか。殺生が悪しきことかどうかも不可知ではないのか。なのになぜあなた方には守るべき戒律があるのか。」

「王よ、僧となる理由も、戒律を守る理由も、人それぞれじゃ。ワシ以外の僧侶が何をどう信じているか、ワシは知らぬし、知りたくもない。彼らの戒律や教えがいくつもの宗派に分かれ、いずれも矛盾していることも承知しておるが、ワシにはどうでもよいことじゃ。

 ワシは長く生きすぎた。ワシはもっと早く死ぬべきじゃった。思慮分別が付く前に。無分別な若者のうちに、罪穢れを知らず死ぬのが人として最上の幸せじゃ。

 ワシは、人を嫌い、人の世を厭い、人が養い育てる家族を嫌い、人の耕作する作物を嫌い、人の飼う家畜を嫌い、人の争いを憎むようになり、それゆえに森に棲むようになった。森の静寂は私の心を癒やしてくれる。心の傷は決して治らぬ。人の世を離れ、過去の自分を想起せぬことだけが、心の痛みに耐える唯一の方法じゃ。

 自分自身の心の中を探ってみるに、結局その根底にあるのは好悪の情じゃ。すべてはそこから出て来ている。教えや戒律以前の問題じゃ。森に棲み瞑想に明け暮れたあげく、到達した真理とは、ワシにとってはワシ自身の性癖じゃった。

 木の実や木の葉を食べても、たちまち木が枯れるわけではない。立ち木には宿り木が生え、朽ち木にはキノコが生える。私は、人間に生まれたことを厭うあまりに、森の暮らしを選んだのじゃ。」

 「人嫌いゆえか。」王は微笑んだ。「だが、俺もまた人間だ。俺は家臣に人殺しを命じもする。自ら剣を振るい、犠牲を屠り、肉を食い、革を身にまとう。それでも俺の友となってくれようか。」

「そのためにここへ来たのじゃ。」僧もまた微笑んだ。「婆羅門教徒も、仏教徒も、ジャイナ教徒も、世俗の王に仕えることを拒む。しかし彼ら沙門もまた教団を作り、僧侶も寺を作り、富や名声を求め、結局は人間の社会を営む。人が集まるところ親があり子があり家がある。師があり弟子がある。因縁が複雑に絡まり合い、精神の自由を奪い、解脱を妨げる。それはワシにはもっとも耐えがたいものじゃ。

 たとえこの世に真理があったとしてもそれが沙門に受け入れられ、宗派に分かれる過程で、真理は人の世の道理によって遮られる。真理という本来純粋無垢なものが人の世に取り込まれた途端に、手垢が付き、ありふれた道具の一つに化してしまう。単なる日常の一部になってしまう。

人の世を離れずしてどうして真理の目が開かれよう。人の世のいさかいを離れ、ただ一人、精神の深奥へと向かわねば、悟りへ至ることはできまい。

 ワシは、これまでにワシと同じ結論に達して、誰にも知られず静かに死んでいった者たちがたくさんいるのであろうと思っている。また今も世界のどこかで、人の世を離れて、ワシと同じ考えに至った隠者がたくさん生きているのだろうと思う。彼らとつながれるのであれば、死ぬ前に会って話がしてみたい。ワシのような人間は世の中にちりぢりばらばらに散らばって生きている。ひとりひとりが天涯孤独であるが、しかし、その数は決して少なくないとワシには思える。彼らとつながりたい。それが、人の世に倦んだワシに残った、唯一の欲望、未練といってよいかもしれない。

 ワシが今日ここへ来たのは、王よ、あなたがワシを地の果ての友に会わせてやると言うたからじゃ。

 ただ己の師であるからとその教えに盲従したくない。ただ身近にいるというだけで友になりたくはない。ただ生まれた土地だからとそこに留まりたくはない。王よ、解ってもらえようか?」

「聖者よ。俺もまたあなたと同じ孤独を分かち合う同志だと思える。孤独を知る者どうし、わかり合えるような気がする。」

「王は孤独か?」

「俺にはむろん、多くの大事な友がいる。しかし心の友はただ一人しかいない。俺は彼をダイモニアと呼んでいる。物心ついた頃から、俺の心の中に直接語りかけてくる、たった一人の友。」

「王よ、つまりそのダイモニアがそなたの神か。」

「神と言えば神かもしれぬ。俺はずっと、自分だけが、ダイモニアの声を聞くことができるのだと思っていた。人には無い、ある特殊な能力なのだと。ダイモニアは俺にだけいるのだ、他人にはダイモニアがついていない、或いは、一人一人にダイモニアがついているのだが、つまりは守護霊とか守護神とも言える存在だが、しかし俺以外の人々は、そのダイモニアの声を聞く能力を持っていないのだと思っていた。

 しかし俺はあなたの話を聞いて、ダイモニアは俺一人にいるのではない、俺だけがその声を聞けるのではないと、いよいよ確信が持てたような気がする。おそらくあなたの言う悟りとはダイモニアであろう。あなたにも、そして、ソクラテスにも、ディオゲネスにもダイモニアはいたのだ。」

「ワシは真の友に巡り会い、真の友と共に語り合いたい。その友が世界の果てに住んでいようとも。あなたが王の臣下としてではなく友としてワシを遇するのであれば、喜んであなたとともに参ろう。」

「俺の生まれ育った国にも、或いは森に棲み椎の実を食らい、或いは路傍の酒甕を寝床にする聖者たちがいる。彼らと会ってやってはくれぬか。そして彼らとともに、俺の友の一人になってほしい。」

「うけたまわったぞ、カッラーニャ・ミッタ(親愛なる友よ)。」

 彼の名はほんとうはカッチャーヤナ・ベーラッティプッタというのだが、名前が長いのと、彼がいつも我々に「カッラーニャ・ミッタ」と挨拶するために、我らはいつの間にか彼をカラノスと呼ぶようになった。