アンティパトロスはカッサンドロスをメガロポリス太守に任じ、自らはペッラへ帰還する。
私もまたアンティパトロス軍に従う。私たちはメガロポリスを立ち東へ、アルフェイオス川をさかのぼり、アルゴスの港、ミュケーナイの古跡を経て、コリントスに投宿する。
コリントスはアクロコリントス(コリントスの丘)に築かれた町で、ペロポンネソスの玄関口にあたる。アクロコリントスから北のアカイアの海へ降りたところがレカイオン港。東のアッティカの海に面した港がケンクレアイ。どちらの港にもひっきりなしに漁船や商船が入ってきては出て行く。コリントス地峡の西端コリントスと東端メガラをつなぐメガラ街道の道沿いは、ギリシャでも最も商業が発達し、人口が密集する地域だ。
近頃毎日上機嫌なアンティパトロスは兵士らに告げる、「今日は、この町で思う存分遊んでくれ。コリントスも、レカイオンも、ケンクレアイも、俺がまるごと貸し切ったからな。コリントスを仕切っているフリュネという女と、俺が交渉したのだ。いちいち金の心配は要らぬ。」
フリュネ。聞き覚えのある名だ。そう、ハルパロスが言っていた、テーバイの娼婦組合長だ。焼け野原になったテーバイを離れて、今はここコリントスで商売しているのだろう。
港の夜景を一望に見渡せる妓楼で、アンティパトロスは酒宴を催す。彼の隣に座っている着飾った花魁(おいらん)が、きっとフリュネだろう。
私は決心する。
たとえアンティパトロスを敵に回そうとも、逃げ出すならば今夜しかない。アンティパトロスも今ならまだ私を疑っていない。
そしてフリュネならばなんとかエペイロスまでの船便を手配してくれるのではないか。
私は酒壺を手にアンティパトロスに近づく。
アンティパトロスの杯に酒をつぐ。白髪の鼻毛と耳毛を生やし、皺のたるみきった赤ら顔で笑っている。凡俗。王の器にあらず。田舎に良くいる世間知らずのじじい。私にはそうとしか思えぬ。

隣に座っている女にもついでにお酌をしながら、私の指にはめた指輪をさりげなく見せる。
女はその指輪を見て、目を丸くする。
「フリュネさんですね。お噂はかねがね、我が友ハルパロスから聞いております。」私はアンティパトロスに気取られぬよう、喧噪に紛れて小声で話しかける。アンティパトロスは若い娼婦連中に取り巻かれてぼーっとしている。
「あんた誰だい?」
「エウメネスと申します。お目にかかれて光栄です。ご相談したいことがありますが、今はご接客中のようですので、のちほどうかがいます。」
私は目配せする。彼女はその意味を察したようだ。私がアンティパトロスの前から下がると、彼女は「ちと厠(かわや)へ」と言って立ち上がる。私はその後を、ひとに悟られぬようについて行く。
「あんた、ハルパロスの密使か。」
「ええ、まあそんなところです。」
「あたしに何のようだ。」
「時間が無いので手短に言います。実はアンティパトロスが私をペッラへ連れて行き、監禁しようとしているのです。今夜逃げなくてはいつ脱出できるかわかりません。あなたのお力をお借りしたい。お金が必要なら、後日必ず支払います。この、ハルパロスの指輪にかけて。」
私は指に嵌めたままその白銀の指輪を鈍く光らせてみせた。
女はにやりと笑い、両手で私の手を包み、押し返して言う。
「馬鹿だね、あんた。金なんか要らないよ。助けてやろうじゃないか。このフリュネ姉さんが。それがテーバイの娼婦気質ってものさ。
いいかい。この店を出て、レカイオン港のほうへくだって行きな。途中、路傍に大きなプラタナスの木が立っている。その根元に大きな葡萄酒甕(ぶどうしゅがめ)が横たえてあり、その中で男が寝てるから、そいつに頼むんだ。」
葡萄酒の甕に寝ている男?
「もしや、フリュネさん。その甕で寝てる男ってのは、あなたの情夫の、」
「おや、ご存知かね。ディオゲネスだよ。」
「彼は船乗りなんですか。」
「あたしも良くは知らないが、ああ見えて、もとはシノペで貿易やら両替、貨幣鋳造やら、手広くやってた商売人さ。仕事でしくじって痛い目に遭って以来、金を見るのも嫌だとさ。だが今も、ギリシャ中の港で顔が利くから、あいつに頼めば船の一艘くらい貸してくれるだろう。ちょっと待ってな。」女は奥へ一旦ひっこんで戻ってきて、「これを手土産にしな。」と言って酒瓶を私に手渡す。

私は、思い切って聞いてみる。「フリュネさん、アンティパトロスという人は、「上客」ですか?」
彼女は顔をしかめた。「とんだ渋ちんさ。権力を笠に着て、武力を振りかざして値切り倒しやがった。値引かねば町を焼くぞと脅しゃあがったんだよ、たかがこの、娼婦ふぜいのあたしにね。あたしが町の顔役らを集めてアンティパトロスの言葉を伝えると、みんなぶるっちまって、言う通りにさせてやってくれだとさ。情けないねえ。
アンティパトロス。ゲスの極みだねえ、あのデブハゲ。フリッポスやアレクサンドロスなら、あんな野暮は決していわなかったよ。」
「ありがとう。よくわかったよ。」
私は彼女の言葉に、自分の身の振り方を決めた。ようやく踏ん切りがついた。妓楼を出て、浜へ続く坂道を下り、途中に立っているプラタナスの木の下に、一個の大きな甕を見つけた。空瓶を持つ手が一本外に飛び出している。
私は甕を、コンコンとノックする。
「あの、もし。お休みのところすみません。ディオゲネスさんですか。」
「ああ?誰だこんな夜中に。」
「私、マケドニア王アレクサンドロスの使いで、たまたまこの地を通りがかりましたが、込み入った事情で難儀しておりまして、船を一艘お借りしたいのです。フリュネさんに聞いたら、あなたに船を貸してもらえと。」
「あんた、フリュネの客かい?」
「いえ、彼女に会うのは今日が初めてです。私はハルパロスの友人でして、ハルパロスが彼女と懇意だと聞き、彼女を頼ろうと思ったのです。」
そして私は、例のハルパロスの指輪を彼にも見せた。
男はにやりと笑う。「おめえ、珍しいもん持ってやがるな。俺も元は商売人だ。いや、ある意味今も、現役で商いをしているがな。」
「どういうことです?あなたは哲学者でしょ。ソクラテス亡き後、ギリシャで一番名の知れた。」
「何もんだ、そのソクラテスとか、哲学者たあ。俺はただのヒモだよ、娼婦の。ともかく、悪いことは言わねえ、物騒だからそんなもんは早くしまっとけ。デロスの指輪だろ。命がいくらあっても足りねえぞ。」
私はどうしたものかわからず、手のひらを組んで指輪を隠す。
「デロスって何なんです?」
「知らねえでそんなものはめているのか。ますます身が危ねえ。」
「教えてください。」
「世の中、知りすぎちゃいけねえことがあるんだ、若造よ。聞かないほうが身のためだ。」
「ともかく、あなたに助けてもらいたいんです。お礼ははずみます。」
「礼とはなんだ。ドラクマ(アテナイの銀貨)か。それともダリック(ペルシャの金貨)か。そんなもん要らん。俺の前にそんなもん出すな。」
「あなたは先ほど、今も現役で商いをしているとおっしゃいましたが?」
「金など使わなくても商いはできる。むしろ金があるとやっかいなだけで、商売の邪魔だ。」
わけがわからない。彼は私が差し出した貨幣を穢らわしいものを見るような目でみる。どうも彼は、道徳倫理として、赤貧とか清貧を礼賛しているのではなさそうだ。むしろかつて金にあまりにも貪欲過ぎて、今では拒絶反応を起こしているように見える。
「おい、おまえの持っている、その酒を飲ませてくれ。」
私が酒瓶を手渡すと、彼はたった一息、二息で、あっという間に飲んでしまった。
「で、どこまで行く。」
「エペイロスのドードーナまで。」
「ドードーナ?死んだ女房に会いにいくのか?」
「いえ。生きている女王に。」
「ああ、なるほどね。あの女のところか。」
ディオゲネスは酒樽から転がり出てきて、曲がっていた腰をしごいてまっすぐに伸ばし、ふらふらと歩き始める。
「おまえのあるじは達者か。」
「アレクサンドロスですか。」
「そうだ。」
「ええ。少なくとも、テュロスでお別れしたときには。」
「おまえを助けるということはアレクサンドロスを助けるということか。」
「そういうことかもしれません。嫌ですか。」
「俺はあいつの一ファンだ。あいつも俺のファンの一人だが。まあそれだけのことに過ぎぬ。」
「あなたとアレクサンドロスは、ここコリントスで意気投合したと聞きました。同じコスモポリタニストとして。」
「ふん。コスモポリタニストか。たいそうな肩書きだな。」
「元はと言えばあなたの自称でしょう。」
「そうだったっけ。今、あいつはどこにいる?」
「王はもう今頃、エウフラテス河畔のタプサコス辺りまで行っているはずです。」
「へえ。やってやがる。ああ、俺も行きてえなあ。」
「うらやましいんですか。」犬儒派の哲学者が世俗の王者を羨むのが、私には珍しかった。
「ああ行きてえな。世界中歩き回りてえ。エジプトの多神教、アジアの拝火教、インドのバラモン教。俺はとりわけインドに行きてえよ。俺も連れて行ってくれねえかなあ。」
「なぜインドに行きたいんです。」
「本場インドで修行してみてえ。色即是空、梵我一如だよ。心頭滅却すれば火もまた涼しってえ境地に達してみたいもんだねえ。」
「あれを見ろ。」ディオゲネスが指さす。
港の外れにスラムがある。海には、土地を持たない、あばら船やらを並べて寝床にする貧民たちが、波に揺られながらいびきをかいて、大富豪になった夢を見ている。
ディオゲネスは尻をぼりぼり掻きながら言った、「あの船にゃ、守銭奴の船主と、やはり金に意地汚いその女房と、そいつらがまぐわって生まれた、貧乏子だくさんな子供らが五人暮らしている。夜が明けたら、亭主をたたき起こして、金を恵んでやりな。エペイロスくらいならば、喜んで乗せていってくれるだろうよ。」
「ありがとうございます。助かります。」
「あんた、商いには素人みたいだから、忠告しておいてやるが、あいつらにはたんまりと、しかし小出しにして、渡してやるんだぞ。足りねえと何されるかわかったもんじゃねえ。しかし気前よすぎちゃ、金がいくらあっても足りねえ。」
「難しそうですね。」
「こればかりゃあ、場数を踏むしかないがねえ。」ディオゲネスは愉快そうに笑う。
「私ももう、ここにくるまでに、随分場数を踏んだつもりですがね。」
私たちはしばらく談笑していた。不思議なことだ。あのディオゲネスと私が、こんなふうに、古い知り合いどうしのように話を弾ませているなんて。もっと寡黙な、付き合いにくい人だと思っていたが、ごく普通の親しみやすい男だ。
ふと丘の上を振り返ると、女が一人、坂を下りてくる。うきうきと、いきいきとした表情で、私のそばを通り過ぎ、ディオゲネスと連れだって浜辺の方へ降りていく。どうやらあれはさっき会ったフリュネらしい。
「俺はもう行く。あとはあんじょうやれや。」
ディオゲネスはそう言って、フリュネと二人、腕を組んで歩き出した。フリュネは、やっとアンティパトロスの座敷がお開きになり、これからどこぞで、ディオゲネスと飲み直すのらしかった。
レカイオン港のさざ波の上にへライオン岬の灯台が瞬(またた)いている。
へライオンの灯台は倦むことなく、夜通し船乗りと恋人たちに光を投げかけている。
なんという、うらやましい後ろ姿だったろう。私はたった一人で、寝るでもなく、だがはっきり目を覚ましているわけでもなく、膝を抱えてぼんやり海を見ながら夜明けを待つ。もし王がイリュリアで死んでいれば。私は王に呼ばれることもなく。アルトニスも父アルタバゾスとペルシャに逃れることもなく。私と彼女は二人ともまだリュケイオンにいて、あんなふうに二人で浜辺を、手をつないで歩いたり、朝まで楽しく語らって過ごしていたのかもしれない。
漆黒の空が青ざめて、東の地平が淡く光り、深いコバルトブルーの海面(うみづら)は、やがて明るく、エメラルドグリーンに輝き始める。アカイアの連嶺が赤く染まり、白い波頭(なみがしら)が岸辺に寄るのを見ていると、私は息苦しくなってくる。いつもと同じ朝の光景のはずなのに、今日の私には祝祭日の夜明けのように見える。ただの日常が、特別あつらえの、キラキラした非日常に見えるのは、私の心が昂(たか)ぶっているからだ。あるいはひどく心を病んでいるせいかもしれない。私は妙に冷静に、自分を見つめなおす。自分の心理状態を分析する。医学を学んでいたころの自分が突然よみがえってきたのかもしれない。
私はディオゲネスに教わった通りに、亭主と交渉した。そのまま乗せてもらえるのかと思ったら役場のようなところへ連れていかれて、書類を書かされ、手数料を支払って、やっと乗せてもらった。
「ずいぶん手間取ったな。」
「船を借りたのさ。」
「あなたの船で行くのではないのか。」
「ああ。あれか。アレは船ではなくて俺の家だ。俺も昔は一人前の船主だったが、落ちぶれて船を手放した。以来、雇われの船頭さ。あの家も借り物だよ。」
「へえ。そうかい。」
彼と二人、船に乗り込み、コリントス港を出航する。船頭は西へ西へと帆を操って、静かなコリンティコスの内海を出て、いよいよイオーニアの海へ出る。私が失踪したのを知ったアンティパトロスは、私を激しく憎むのに違いない。カッサンドロス、見どころのある若者だが、彼とも敵対せざるを得ない。
私の人生はいよいよ、完全に引き返せないところまできた。
