「マヅダーヤなら知ってるわよ。」王妃バルシネが唐突に口を開く。皆が一斉にバルシネに注目し、彼女はちょっと驚いて、「今あなたたちが言っているマヅダーヤと、私が知ってるマヅダーヤが、同じマヅダーヤかどうかは知らないけど。」と付け足した。
「王妃よ、」プトレマイオスが訊く、「どこでその男とお会いになりました?」
「シドンで。」
「シドン?」
「うん。ついこないだ、シドンの王宮で会ったわ。」
シドンはここテュロスのすぐ北隣に位置する港町。テュロスを朝発ち、歩いてその日の夕方には着くほどの近さだ。
「いつ?なぜ。ついこないだとはいつのことだ。」
「まだそんなに経っちゃいないわよ、そう、ちょうど去年の今頃のことだったわね。」
「去年の今頃?その頃にはとっくにテュロス攻囲戦は始まっていたんですよ。その時分にマヅダーヤがまだ地中海近辺をうろついていたはずがない。彼はとっくに内陸のアッシリアあたりまで逃げていたはずだ。」
そして今はバビュロンの太守に収まっていると聞く。
「いや、そうね、違うわ。おととしのことよ。」
「おととしですか。というと、」
「おととしの秋口だったかしらねえ。」
プトレマイオスは緊張した。「イッソスの戦いの直前ですな?」
バルシネもイッソスの戦いくらいは知っていた。
「うん。私はその頃シドンで人質になっていて。」
「その頃シドンを治めていた太守がマヅダーヤだった。」
「そうよ。その人に違いないわ。シドンの太守マヅダーヤ。」
「王妃よ。そのマヅダーヤについて詳しく話してください。どんな些細なことでもよい。そいつはどんな男でしたか。」
「些細な?」
「はい。」
「日常茶飯な、プライベートなことしか知らないけど。」
「かまわん。むしろ彼の人柄を知るには貴重な情報だ。」ペルディッカスがしびれを切らしてそう言った。
バルシネはちょっと困った顔をした。「こんな大勢なお方の前で、私のつまんない、個人的なことをお話ししてもよろしいのかしら。」
彼女にも自分の話が往々にして退屈であることの自覚があるらしい。
「時と場合による。」プトレマイオスが再び、じれったそうに口を挟む。「あなたは今や王妃です。王子も産んだ。あなたの存在自体が我々マケドニア軍全員の最重要関心事なのだ。その上、これから我らの敵となるマヅダーヤについても知っているという。では是非とも話してもらわねばならぬ。おわかりか。これは決して単なる茶飲み話ではないのです。話せぬとなれば王妃であろうとも我らはあなたを敵と通じた危険人物として扱わねばならぬことになる。」
かつてのペルシャ海軍提督でペルシャ宮廷における政争に敗れてマケドニアに亡命したアルタバゾス。その娘バルシネが王軍にとっていろいろと厄介な存在であることには違いがない。そしてよりによって王はそのバルシネに手を付けて子を産ませてしまったのだ。それとは言わぬがプトレマイオスはそうした王の軽はずみな行動について、腹に一物あるに違いないのである。もしかすると王とバルシネはもっと以前から、王がまだ王太子で、バルシネがまだほんの小娘であった頃から、そういう深い仲であったのかもしれない。あるいはあのバルシネのことであるから、マヅダーヤの愛人でもあったかもしれないのだ。
「おや、プトレマイオス、そなた私を脅す気?」
「そうではありません。ただ知っていることをすべてありのままにお話しくださいと。」
「うんざりするような長話でも?」
みんな顔を見合わせた。
「では手短に。ですが、漏れの無きよう。」
「わかったわよ。
じゃあ話してあげようじゃないの。
アレックスがハリカルナッソスに駐留してたとき、私と夫メムノンは、あなたがた、アレックスたちとは海を隔てて目と鼻の先、ロードス島にいた。」
アレックスとはアレクサンドロスのことだ。バルシネは子供の頃から彼をそう呼ぶ。王をそんなあだ名で呼ぶのはバルシネしかいない。
「あのときあなたがたは、そんな近くにいたのですか。それで?」
「アルタバゾスは、つまり私の父だけど彼はそのとき、アルシテスと対立してマケドニアに亡命していた。」
「うんそう、マケドニア本国の都ペッラにいた。」
「で、一方メムノンはペルシャの提督で傭兵隊長。私の夫はペルシャ側。でも私の父はマケドニア側に与しているっていう状態だったわけよ。」
「ええ。そうでしたね。」
「そんでメムノンは私をロードス島からシドンまで船で運んで、当時シドンの、というよりシリア全土の太守だったマヅダーヤに引き渡したのよ。」
「それはロードス島が戦場になりそうだったから、ですね。」
「違う。ロードス島ほど安全なところはない。あなた方だって結局、ロードス島は落とせなかった。でしょ。」
「ではなぜわざわざメムノンはあなたをシドンに送ったのです。」
「それは決まってるじゃない、私が夫のために、ペルシャで人質になるため。」
「つまり、メムノンはあなたを使ってペルシャに忠誠を示したってことか。」
「そゆこと。」
「それでどんな男だ、マヅダーヤは。軍人、それとも政治家か。」
「うーんそうねえ。」バルシネは首をかしげて考えるふうだ。
「バルシネ、あなたに今私は、そんなに難しい質問をしたかな?」
「急かさないでよ、プトレマイオス。私の知ってるマヅダーヤのことを話せば良いのよね?」
「ええ。見たまま感じたまま、言ってくだされば。」
「彼はたいていいつも、地味な鼠色の、アッシリア風の日除け頭巾をかぶってた。」
「日除け頭巾?」
「うん。てっぺんに丸いお皿みたいな日除けの庇がついた頭巾でね。」
「頭の上に皿を載せてたら風で吹き飛ばされそうだな。」
「うん。だから、耳当てにつけた紐を顎の下できゅっと締めてかぶるのよ。
で、やはり鼠色の、アッシリア風の文様が入った、足首まである長い外套を羽織って、ブーツを履いて、頭巾と外套で砂埃が入らないよう身を固めて、その隙間から顔とヒゲを出してた。」
「いつも?」
「うん。外出するときはいつもそんないでたちね。公務の時も、王族の前に出るときも、頭巾をかぶったまま。でも、自宅に帰ると部屋の中では外套と頭巾を脱いだ。」
「そりゃ誰だってそうだろうね。」
「脱ぐと下には、とびきり上等の羊毛を使った、いろんな色で刺繍された毛織物の服を着ていた。」
「あなたはマヅダーヤの自宅に招かれたことがあるのですか。」
「ええ。何度も。食事して。お酒を飲んで。」
「二人きりで?」
「ばかね。変に勘ぐらないでよ。
彼の周りにはいつも取り巻きがいたわ。家族や、侍女や給仕たちが。
彼は常におしゃれで、いつも繊細な心遣いをする人。ザグロスで獲れる、とびきり高級なジャコウジカの香水をプレゼントしてくれた。」
「なんだ、要するに優男(やさおとこ)、か。」王が口を出す。
「優男ってどんな男か知らないけど。」
「たとえて言えばハルパロスみたいにいつも香を焚いているようなやつさ。」
「そんなでもない。でもいつも、香油の匂いはしていたわね。でもシリアやアッシリアではそのくらいの身だしなみする男は珍しくないのよ。」
「じゃ宦官か?」
「違うわよ。一応、ちゃんとした男みたい。」バルシネは舌を出して付け足した。「試したことはないけど。」
「軍装ではない?」
「ええ。一度も見たことはない。」
「念を押すが、あなたは彼が戎衣姿になったところを見たことはない?」
「ええ。」
「鎧兜を着たり、剣を腰に帯びていたりはしない男ってことか?」
「そうねえ。うん。間違い無いわね。少なくとも私は一度も見たことない。観兵式でも観艦式でも、ずっとおんなじ格好。たぶんあれがアッシリア貴族の正装なのじゃないかしら。」
「マケドニア人みたいな、つまり俺みたいに、戎服を着っぱなしな無骨者じゃないと。」
「そうよ、アレックス。あなたたちとは全然氏素性が違う貴公子。
そしてとんでもないお金持ちだって聞いたわ。」
「金持ち?」
「というより、財務官っていうのかしら。シドンでも、ダマスクでも、ペルシャの貨幣には必ず彼の名が刻まれている。もう見たでしょ?」
王は巾着から銀貨を何枚か取り出して眺めた。「これのことか。」
「そうそれ。マヅダーヤが鋳た銀貨。バールタルヅ。」
アテナイで鋳造しているドラクマと、ペルシャで発行しているバールタルヅ銀貨は世界で最も信頼されている貨幣で、等価交換されている。つまりアジアでもギリシャでもエジプトでも、みんな区別無くこれらの銀貨を使用している。
「貨幣の鋳造もやっていたのか。」
「見てご覧。MZDY。アラム文字で彫ってある。それが彼の名。彼がもう二十年も三十年もペルシャのお金を作ってたぽい。」
コインに名を刻ませ帝国中で流通させているのだから彼は相当の実力者に違いない。
「なんだってまたそんなやつがシドンで太守をしてたんだ。そしてなぜ今バビュロンの太守をやっている。なぜペルシャ王は彼にバビュロンを任せたのだ。」
「さあ。彼がとびきり優秀な人だったからだと思うけど。それ以上のことは、私にはわからないわね。」
「ペルシャ帝国で最重要な人物の一人?」
「そうね。王の次くらいに大事な人、帝国の宰相と言ってよい。」
「ふーん。その彼が君を鄭重に遇した?」
「そりゃまあ私だってハカーマン一族の末裔だから。マヅダーヤは私を、ペルシャ王女として扱ってくれた。でもそれだけのことだと思うわ。」
「やつにそれ以上の下心はなかったってことか。」王はにやにやしながら訊いた。
「ええ。」
「マヅダーヤは何か君に重要なことを言ってなかったか。」
「政治とか戦争についてってこと?」
「そう。」
「ペルシャ王はスーサからバビュロンを経てアッシリアへ進みながら大軍を集め、シドン太守の彼、マヅダーヤにはシドンに大軍を集めさせた。
ペルシャ軍はバビュロンからキリキアへ向かう途中、雑多な荷物や侍女らの多くをダマスクにとどめて、マケドニア軍討伐には王母シシュガンビスとその娘ら、ごく一部を連れていった。
まあここから先は私の想像だけど、実は、マヅダーヤこそはペルシャ軍の実働部隊で、ペルシャ王軍はマケドニア軍を罠にかける陽動部隊に過ぎなかったのじゃないかしら。」
「陽動?どういうことだそれは。なぜ君はそう思う?」
「今のペルシャ王は3年前に担ぎ出されたハカーマン家の分家に過ぎず、王として戦をした実績が無い。今まで将軍として神輿に担がれたことは何度かあってもね。
でもマヅダーヤは若い頃からずっと先代、先々代の頃から、何度も戦争をやってた実力者なわけじゃない。ならなぜペルシャ王は彼をイッソスに連れて行かなかったのかしら?」
「確かに不審だ。」
「だからね。ペルシャ軍は最初から二手、いや、三手に分かれていたのよ。
ペルシャ王軍。
マヅダーヤ軍。
そしてペルシャ地中海艦隊。
マヅダーヤはエジプト、シリア方面の精鋭をシドンに集めていた。
陸軍だけでなく海軍も。ペルシャの地中海艦隊をシドンに集結させていた。
ペルシャ王軍はまずキリキアからマケドニア軍を追い出し、南へ南へ、シドンから北進するマヅダーヤ軍と、海から地中海艦隊を繰り出して、マケドニア軍は四方から包囲されてまさに袋の鼠。きゅっと絞め殺して、ことが済めば、ペルシャ王軍はマヅダーヤと合流し、祝勝の宴を張って、後はエジプトで物見遊山する予定だったそうよ。
てことはつまり、ペルシャ王軍は最初から囮、陽動で、実働部隊はマヅダーヤ軍だったことにならない?」
一同はざわついた。
「なんてこった。」王は冠を床に叩きつけて、まるで子供のように髪の毛をかきむしり、地団駄を踏んだ。「何でそんな大事なことを今まで話さなかったんだ。」
王の剣幕にヘラクレスがびっくりしてぐずり始めたので侍女が飛んできて、ヘラクレスを抱いて奥へ連れて行った。
「だってあなた。そんなこと一度も私に聞いたことなかったじゃない。」
バルシネの証言で、イッソスの戦いの時、ペルシャ軍がどう動こうとしていたか、かなり明らかになってきた。
イッソスの戦いのとき、ペルシャ軍は、ペルシャ王軍のほかにマヅダーヤ軍を用意していたのだ。
ペルシャ王の本隊はまずイッソス郊外ソコイに集結した。アッシリア平原の西のはじに位置するオアシスの町だ。
我らの王は、何も遮るものの無いアッシリア平原での全面衝突を避け、地中海沿いに、山間部を縫うように南下し、トリポリ、ビュブロス、シドン、テュロスなどの都市を取ろうと考えた。
ペルシャ王軍はまずキリキアに入って我らの退路を断ち、同時に我らを南へ追撃しつつ、シドンからマヅダーヤ率いる別働隊を北上させて、ジワジワと、我らを囲い込む策戦だったのだ。
もし我らがイッソス湾からただちに反転してペルシャ軍を迎え撃っていなかったら、我らはペルシャ王親征軍と、マヅダーヤ軍に両面から同時に攻撃を受けて、厳しい戦いを強いられていたに違いない。
マヅダーヤが到着していなかったので我らは敵勢力の半分と戦えばよかった。
確かに普通の王なら、背後から迫るペルシャ王との直接対決を避けて、敵地奥深く入り込み、敵の罠に落ちていただろう。
しかし我が王は即座に反転して、油断していたペルシャ王を攻めた。しかも、帝国全土から集めた混成部隊には目もくれず、王を守る親衛隊軍を衝いた。
地形も我らに味方した。イッソス湾はあまりに狭隘で、ペルシャは大軍の利を活かせなかった。我らは敵の一点を攻めた。ペルシャ王はろくに戦いもせず敗走し、ペルシャ軍は総崩れした。それで我らは勝てたのだ。
イッソスで我々はやすやすとペルシャ軍を破った。敵は余りにも脆かった。それで我らはペルシャを侮った。
しかし我々は単に運が良かっただけなのかもしれない。本来ならあの勝敗は、もっときわどいものだったのだ。
王は険しい顔をしている。
プトレマイオスも驚いた顔をしている。
私もまた、思わずほっと安堵の息を吐いた。私の周りにも、同じようにそのことに気づき冷や汗をかいている者もいたが、何も気づかないでぼんやりしている者もいた。
「それをおまえはマヅダーヤから直接聞いたのか。」
「ううん。だから私の勘よ。女でもそのくらい雰囲気でわかるわよ。」
「敵は我らを舐めていたわけではない。油断して負けたわけでもない。むしろ周到な用意をしていたということか。」
「だがペルシャ王はイッソスで敗れてアッシリアに逃げた。」
「マヅダーヤがいくら大軍を擁していたとしても戦に間に合わなきゃ意味がない。」
「そしてシドンにいたマヅダーヤは、兼ねての指示どおり、アッシリアとバビュロンの守備に回った。」
「つまりペルシャ王は、シリアとエジプトを放棄したことになる。」
