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浅草地下街地図

ようこそ昭和のダンジョンへ。

浅草寺方面から来る場合は、新仲見世通りに面した6番出口から地下街に入る。地下街を抜ければそのまま銀座線までいける。逆に銀座線到着ホームの先頭から改札を出てすぐ左に曲がると地下街に入れる。6番出口は浅草寺方面から銀座線へ至る最短経路で便利だが、狭いし、天井は低いし、床は漏水で滑りやすい。しかも深夜から朝6時までシャッターが降りて閉鎖されている。或いは改札の手前でシャッターが降りている。朝5時の始発を使う時には6番出口は使えない(新仲見世通りから来た場合は東武浅草駅1F西側の入口を通り、7番出口から銀座線改札へ向かえば良い。もちろん1~5番出口からはいることもできる)。

東武浅草駅と銀座線の連絡には銀座線の7番出口を使えば良い。またその途中から地下街に入れる。

都営浅草線で浅草に到着した場合は、諦めて一度地上に出て、8番出口へ向かうのが一番わかり易いかもしれない。しかし8番出口は馬道通り、雷門通り、江戸通りの交差点の横断歩道を渡らねばならず、信号待ちに時間がかかる。私は普段使わない。

1番出口や3番出口などから地下街に入ることは(銀座線に入場しない限り)できない。要するに、地下街に入るには6番出口か銀座線から来るしかない(さもなくばやや遠回りだが8番、7番、もしくは5番出口から来れなくもない)。

浅草地下街の問題は、浅草駅全体の設計にもあると言える(それこそが浅草ダンジョンの醍醐味でもあるのだが。つくばエクスプレス浅草駅が乗り換えるには遠すぎるのは今はおいておこう)。

東京メトロのサイトにも銀座線浅草駅構内図に6, 7, 8番出口が記載されているが、非常にわかりにくい(特に浅草地下街から6番出口まではかなり省略されている)。A4、A5出口などは本来は都営浅草線の出口に振られた番号であろう。都営線と銀座線の連絡は極めて悪い(1番線到着ならば都営線への乗り換えは比較的スムーズだが、2番線に着くと面倒なので、その場合1駅前の田原町駅で降りて次の1番線到着の電車を待てなどと車内アナウンスがあるほどである。ただし雷門、浅草寺方面に行くには2番線到着のほうが便利。6, 7, 8番出口に向かうならば一番先頭の車両に乗るのが良い)。都営線と東武線に至っては直接の接続は無い(銀座線に入場することなく都営線と東武線をつなぐ地下通路は無い)。出口間の連絡通路もないから地上にいったん出るしかない。たとえ連絡通路があってもやたらくねくねと折れ曲がり、階段を昇り降りさせられる。浅草駅に入るものはすべての希望を捨てねばならない。浅草寺もしくは東武方面から都営浅草線に行くには、銀座線出口をすべて無視し、都営専用の出口から入るのが吉である。

あまりにも設計が古すぎ、またあまりにも場当たり的なので、新宿や渋谷のようにいっそのこと完全に再開発してしまったほうがよいのだろうが、それでは浅草駅らしさが失われてしまうので、昭和遺産かなにかに指定して未来永劫現状のまま保存してはどうか。

6番出口と8番出口は幅が2メートルほどしかない。銀座線から新仲見世通りへの近道として機能させるにはあまりにも細すぎる(玉の井の「抜けられます」のようなものか。昭和30年、敗戦直後の貧乏性がなせるわざなのだろう)。浅草の要衝に位置しながら盲腸のような役割しか果たせていないのは、これら6, 8番出口のせいである。銀座線から地上に出る場合は普通1, 2, 3, 7番出口を使うだろう。4, 5番出口は隅田川のほうに出てしまうので普通こちらを利用することはない。

地下街の通路も幅4メートルしかない上にテーブルや陳列などが店からはみ出している。漏水は地下街全体に見られ、まったく手の施しようがない。エアコンも2025年夏になってやっと設置された。

8番出口

東武伊勢崎線(スカイツリーライン)浅草駅(エキミセ、松屋浅草)正面口は現在、雷門通り、江戸通り、馬道通りに取り囲まれて、まるで陸の孤島のようになっているが、かつて浅草駅は1882 (明治15)年にこの吾妻橋西詰め交差点に馬車鉄道の停留所として作られた。実際には、馬車鉄道には決まった停留所がなく、どこでも停車して客を乗り降りさせていた。固定した停留所ができたのは1904 (明治37)年に馬車鉄道が電化されて路面電車となってからである。その後、1927 (昭和2)年に銀座線浅草駅ができ、1931 (昭和6)年には東武伊勢崎線の浅草駅ができた(細かいことを言えば、東武浅草駅は明治44年に業平橋、つまり今のスカイツリー駅にあった。これが延伸して浅草雷門駅ができ、これが今の東武浅草駅であり、元の浅草駅は業平橋駅と改称された。さらにスカイツリーが建って業平橋駅は今度はスカイツリー駅という名前になった。今スカイツリーが建っている場所には東武の貨物車の操車場があった(当時の地図スカイツリーの歴史参照)。

今日、スカイツリー駅と押上駅の関係がどうしようもなくぐちゃぐちゃなのはこうしたスカイツリー駅の呪われた歴史のためである。東武と都営の相性の悪さ、カオスさは、よそからこの地を訪れた者にとっては驚きと困惑以外の何ものでもないのだが、地元の人はきっと都市計画というものを一切信用していないのに違いない(私もようやく最近この台東区から墨田区、足立区にかけて漂っているこうした諦めの境地のようなものをやっと理解してきた。慣れてくればそれが心地よさに変わるのかもしれない)。

一方で、かつて浅草と呼ばれた路面電車の電停は雷門辺りにあって、8番出口辺りの電停は吾妻橋西と呼ばれていた。また東武浅草駅ができる前は、馬道通りは今のように吾妻橋西詰め交差点に接続していたのではなく、今の観音通り辺りから雷門通りに出ていた。この馬道通り、つまり馬道は、観音堂を迂回して雷門通りから観音裏を抜け日本堤まで続いている。また、浅草一丁目辺りは花川戸町もしくは馬道町二丁目江戸通り花川戸通りと呼ばれていた。浅草古地図等参照)。

明治12年頃の浅草。雷門、伝法院の書院などは当時存在していなかった。浅草神社の参道は二天門の外の東参道につながっていた(この三社権現改め浅草神社の参道の屈折は異常である。広重の浮世絵「東都名所 浅草金龍山」でも、明治12年以降の地図でも確認できない。明治維新直後の神仏分離運動と関係があるのだろうか。二天門も明治に随身門から改称された)。弁天堂の周囲には池があったらしい。明治政府によって浅草寺境内は浅草公園として整備されたが、狭義には六区辺りを浅草公園と言ったらしい。

1955 (昭和30)年に浅草地下街ができると、路面電車の駅から地下街へ直接入れるように8番出口ができたのである(6番出口は明らかに地下街と同時に作られている。6番出口より前に8番出口が作られたとは考えにくいから、5, 6, 7, 8番出口はみな地下街とともに作られ、その際エキミセ正面口の構造も作り変えられたと考えるのが自然だ。ちなみに1番出口は雷門ビルという日本初の駅ビルに作られた。4番出口は昭和4年にできた。銀座線浅草駅が出来たときにはまだ東武浅草駅はなかったから、銀座線から東武へ直接向かう改札も出口もかつては存在せず、地下街を作る時に今のように接続されたのだろう。かつて正面口にはエレベーターも車椅子用のスロープもなく、もっと間口が広かったはずだ。エキミセ正面口がかくもいびつな構造をしていること自体、後から7番出口が追加された証拠とも言えよう)。当時はまだ現在ほど車道の交通量は多くなく、人の移動手段は円タクか乗合バス程度であったから、人々は容易に8番出口を利用することができた。しかし車が増えるに連れて都心は何車線もある車道によって分断され切り刻まれていった。

浅草周辺でも、鶯谷や根岸、巣鴨のとげ抜き地蔵辺りの交通事情はひどいものである。かつての江戸、東京の風情は完全に失われた。河川や江戸城の堀も暗渠となり、或いはその上に首都高が作られた。極めて嘆かわしいことである。

エキミセ正面口

エキミセ正面口の構造はかなり複雑である。東武から銀座線へ向かうにはエスカレーターを降りて銀座線の7番出口へ向かうと良い。

6番出口

よろしければ私が作詞作曲した地下街の歌を聞いていってほしい(ただし2番の歌詞と歌声はAI)。

浅草地下街商店一覧

地下街のトイレは施錠されているので、店員に鍵を借りて開ける。

Jプライスはダンジョン内ダンジョンといえるほど中が広いので、外から眺めるだけでなく、一歩店内に足を踏み入れてみるとよい。

文殊は系列店が浅草橋にもある。浅草橋店のほうは座って酒も飲める