閉じる

若干の補足

スーサ合同結婚式

スーサ合同結婚式は、ゲドロシア踏破の翌年、BC324年2月に行われた。

アレクサンドロス大王はラオクシュナを正妃に立て、ダーラヤヴァウ3世の長女スタテイラ(母と同名)とアルタクシャサ3世の末娘パリュサティスを娶る。大王はその翌BC323年6月10日、バビュロンで死ぬ。このときすでにラオクシュナは懐妊しており、8月にアレクサンドロス4世を産む。スタテイラ、パリュサティスは身籠もらなかった。大王には他に、バルシネに産ませた異母兄ヘラクレスがいた。大王の子はこの男子2人だけである。

バビュロンで開かれた世継ぎ会議(バビュロン会議)によって正妃ラオクシュナが産んだ嫡子アレクサンドロスが大王を継いでマケドニア王となる。王の印綬を渡され、会議を主催したペルディッカスが幼い王の代わりに、摂政となる。クラテロスは本国マケドニアに帰り、アンティパトロスに代わり、この地を治めることになった。

アレクサンドロス4世の摂政ペルディッカスが敗死するとアンティパトロスが代わって摂政となり、アンティパトロスが死ぬとその子のカッサンドロスが実力で摂政を継いだ。カッサンドロスは、ラオクシュナも、大王の母オリュンピアスも、アレクサンドロス4世も、ヘラクレスも、ヘラクレスの母バルシネも、みな殺してしまった。かかる大粛清によって大王直系の血筋は絶える。カッサンドロスは大王の異母妹テッサロニケー(母はニケシポリス)を娶る。テッサロニケは3人の息子フィリッポス、アンティパトロス、アレクサンドロスを産み、彼らはカッサンドロスの死後相次いで王となるが、彼らは世嗣を残さなかった。これによって約400年間続いたアルゲアス朝は断絶した。

セレウコスとヘレニズム世界

セレウコスは後にアレクサンドロス大王が征服した版図の大半を継承する。事実上のペルシャ帝国再興である。セレウコスは再びインドまで出征し、マウリア朝の始祖チャンドラグプタと国境を画定して西帰した。

セレウコス朝は最後の王アンティオコス13世が共和制ローマの将軍ポンペイウスに廃位されるまで、250年の長きにわたって西アジアに君臨した。ヘレニズム世界を創始したのはアレクサンドロスであるが、ヘレニズム世界を確立し、完成させたのはセレウコスであった。

アパマとセレウコスの間には2男2女が生まれた。長女は母の名をとってアパマ。次女はラオディケ。長男はセレウコスの父の名をとってアンティオコス。次男がアカエウス。このうちアンティオコスがセレウコス朝を継ぐ。セレウコスは首都をバビュロンにはせずに、バビュロン近郊、ティグリス河畔オピスに自分の名を与えて首都セレウキアとした。またシリアにセレウコスの父アンティオコスにちなんでアンティオキアを、妻アパマにちなんでアパメアを建設した。アンティオキアは後にヘレニズム世界の中心として栄えた都市である。

セレウコス朝東部ではギリシャ人の総督がバークトリで自立してバークトリ王国を建てる(BC255頃)。また、イラン北東部、かつてのメディア王国の地にパルティア王国が興る(BC247)。パルティア王国はギリシャ語で始祖の名をとってアルサケス朝パルティアともいうが、アルサケスはペルシャ語でアルタクシャサ。つまりペルシャ王アルタクセルクセスと同じ名だ。出自は明らかでないが、ハカーマン朝ペルシャ王家の子孫を称したのかもしれない。ハカーマン朝が80年余り後にペルシャに復興した、と言えなくもない。

プトレマイオス

プトレマイオスはアテナイの娼婦タイスを軍中に愛人として伴っていたが、スーサでアルタバゾスの次女アルタカマを与えられた。バビュロン会議でプトレマイオスはエジプトの太守となった。

プトレマイオスは後にアンティパトロスの娘エウリュディケを妻とし、またエウリュディケの侍女ベレニケにも子供を産ませている。プトレマイオスは後にプトレマイオス朝エジプトの初代ファラオとなるが、ファラオの妃となったのはベレニケであり、彼女の息子がプトレマイオス二世となって王朝を継ぐ。

本書でプトレマイオスとセレウコスはいとこどうしという設定になっている。この二人がマケドニア本国を除くペルシャの版図を協力して山分けにした。二人ともおそらく戦争がうまいというより、統治能力に優れていたのだろう。

アマストリー

アマストリーの人生は一つの小説になり得るほど興味深いものであるが、今それを読み物に仕立てて、読者の方々に提供する準備がない。

スーサにおいて大王はアマストリーをクラテロスに与えた。BC321年、クラテロスはエウメネスとの戦いの最中に馬を交換しようとして落馬し、その傷が元で死んでしまう。死別か離婚か判然としないが、夫クラテロスを2年足らずで失ったアマストリーはディオニュシオスというギリシャ人と再婚する。ディオニュシオスは黒海に面するアナトリア北部のヘラクレアという土地の僭主であった。アリストテレスの保護者だったエウブロスヘルミアスらと同類の人だった可能性が高い。

大王の死後エウメネスはペルディッカスからカッパドキアとパフラゴニアの太守に任命されるが、これらの土地はもともと大王の征服地の外である。思うに、エウメネスの本拠地はやはりヘルミアスから引き継いだフリュギア・ヘッレースポントス地方であって、隣接するカッパドキアとパフラゴニアの攻略を任されたのではなかろうか。クラテロスがエウメネスと戦って死んだ地もヘッレースポントスであった。クラテロスが死んだとき、彼はアマストリーを戦地に連れてきていたかもしれない。エウメネスは寡婦となったアマストリーを同僚のディオニュシオスに与えた、ということだろうか。

ガビエネの戦い(BC316。イスファハーンの南約100キロ)エウメネスを倒したアンティゴノスはグラニコスの後リュディア太守に任じられアナトリアに残留した男だ。エウメネスとアンティゴノスはアナトリアの利権でまっこうから対立していたのだろう。

アマストリーはディオニュシオスとの間に2人の男子と1人の女子を産んだ。長男はディオニュシオスの父の名を取りクレアルコスと名付けられ、次男はアマストリーの父の名をとってヴァクシュヴァルダと名付けられ、娘は母と同じくアマストリーと名付けられた。

ヘラクレアは古代ギリシャの都市国家メガラからの入植者によって作られた植民都市であり、その名はギリシャ神話に登場するヘラクレスにちなむ。大王の東征とその継承者らによる長い動乱をよそに、ディオニュシオスは妻アマストリーとともにヘラクレアに平穏に暮らした。この時期がアマストリーにとって生涯で一番楽しい日々だっただろう。ディオニュシオスは当時としては極めて温和で公正な支配者であったが、異常に肥満し、自分の脂肪のために窒息死した(BC306)と言われている。そのときアマストリーが産んだ彼の息子たちはまだ幼かった。

ディオニュシオスの死によって政治的空白地帯となったヘラクレアは、リュシマコスという、やはりマケドニアの将軍によって、アマストリーごと奪われてしまう(BC302。エウメネスはもうとっくに死んでいる)。リュシマコスはしかし、プトレマイオスの娘アルシノエと政略結婚し(BC301)、アマストリーは息子たちが成長してヘラクレアの領主となるまでの間、亡夫ディオニュシオスの遺言に従い、またおそらくはリュシマコスの援助の下、摂政としてヘラクレアを統治する。

アマストリーの二人の息子はやがて成人するが、なぜか、彼らは母アマストリーを、黒海の上で、船から突き落として殺してしまう(BC284)。リュシマコスはその報復にアマストリーの息子たち、クレアルコスとヴァクシュヴァルダを暗殺する。実に不可解な、陰謀の匂いのする事件だが、こういうふうに考えられないだろうか。つまり、ヘラクレアの民はアマストリーの背後にいるリュシマコスの影響を排除して、自治を獲得したい。そこでヘラクレア人民を代表して、アマストリーの2人の息子が、リュシマコス暗殺計画を母に打ち明ける。ところが母に反対されて、やむなく息子たちは秘密を知った母を殺害してしまう。

状況から察すると、ヘラクレアにおける実質的君主はリュシマコスで、アマストリーは彼の傀儡だっただろう。リュシマコスがアルシノエを正妻としたのちも、アマストリーはリュシマコスの愛人だった。アマストリーもその息子らも死ぬと、ヘラクレアは主君を持たない共和政になったという。

リュシマコスは、セレウコスと結んだヘラクレア人が投じた槍に貫かれて絶命する(BC281)。リュシマコスはやはりヘラクレア人に恨みを買っていた。ヘラクレアは、それからどうなったのか。同じ名前の娘アマストリーがリュシマコス亡き後、ヘラクレアの領主の地位を継いだのではなかったか。象徴的な存在であったのか、実権を持っていたかはわからぬが、アマストリーという女性が、20年余り、或いは母娘2代にわたってさらに長期間、パフラゴニア地方ヘラクレアの女君主であったことは間違いない。

アマストリーはヘラクレアの一つの港町に自分の名を与える。現在のトルコ共和国のアマスラ(Amasra)がそれである。アマストリーはまた、世界史上初めて自分の名と肖像をコインに刻んだ女性とされている。その刻印にはΒΑSΙΛΙSSΗS ΑΜΑSΤΡΙΕΟS(バシリッセース アマストリーオス)、もしくはΑΜΑSΤΡΙΕOΝ(アマストリーオーン)と記されており、その肖像はアフロディーテを模して、月桂冠をかぶっている。大英博物館には、アマストリーの2ドラクマ銀貨が収蔵されている(1ドラクマは当時のヘレニズム世界において労働者の1日の賃金に相当したと言われる)。

この銀貨はアマストリーが在世していた時代に鋳造されたもので、かつ、ギリシャ語にラテン語の影響が及んでいない時代のものだ。思うに、「ΟS」はギリシャ語の属格を表す語尾、「OΝ」は国名を表す複数属格であろう(自信無し)。ならば「ΑΜΑSΤΡΙΕ」の部分がペルシャ語のアマストリーの名を移した部分であろう。

ama + stri はアヴェスター語でもサンスクリット語でも「強い女」と解釈することができる。Amastris はギリシャ語風の名前であり、Amastrine はラテン語風の名前であろうと思われる。

アルタバゾス

アレクサンドロスの事績には多くの謎がある。特に私が不思議に思ったのは、なぜアレクサンドロスはイッソスの後エジプトへ向かったのか。しかもその途中半年もかけてテュロスを攻略したのか、ということだ。またエウメネスは、カルディアに生まれ、なぜ幼くしてフィリッポス2世の秘書となったか、またなぜ彼は、引き続きアレクサンドロスの東征に付き従い、後にはディアドコイの一人となったのか。これもまた大きな謎だ。

謎はまたヒントでもある。私はこれらの謎を解く鍵はアルタバゾスではないかと考えている。

アルタバゾスがパールサ高原に発したハカーマン家の子孫であることは、疑うまでもなかろう。ペルシャ帝国がヨーロッパ方面へ進出し、その王族がアナトリア西岸に土着した。それがアルタバゾスの家系だ。サラミスの海戦で活躍したカリア王女アルテミシアもまたその家系に属すると考えられる。ともかくこのアルタバゾスの家系を便宜上アルタバゾス家と呼ぶとして(アルタバゾス朝と呼んでもよいが)、その中にはメントル、メムノン、バルシネ、アルカタマ、アルトニスらが含まれ、また、エウブロス、ヘルミアス、アリストテレスの流れもアルタバゾス家と極めて近い関係にある。フィリッポス二世、アレクサンドロス、アリダイオス、ピクソダロス、アダ、ネアルコスらものちに加わる。

アルタバゾス家は海軍提督の家柄である。その創始にはアルテミシアとテミストクレスが関わっているものと思われる。

メントル以来エジプトはこのアルタバゾス家の勢力圏となった。アレクサンドロスがエジプトに遠征したのはその権益を接収するためではなかったか。またテュロスもアルタバゾスとなんらかの関係(或いは対立)があったと考えるのが自然だと思われる。

ヘルミアス

ヘルミアスはアタルネウスやアッソスなどを領する僭主であった。彼の本拠地はアッソスにあるアテナ神殿であり、周辺地域やレスボス島にも影響力があったらしい。

彼はエウブロスの奴隷であり、おそらくは宦官であった。またアカデメイアでプラトンに学んだ。ヘルミアスは多くの養子を取って、彼らを縁組みして自分の後継者にしようとした。その一人がアリストテレスだった。

思うに、エウメネスもそうしたヘルミアスの養子の一人、もしくは、ヘルミアスが縁組みして生まれた子の一人だったのではなかろうか。つまり、カルディア生まれの男子もしくは女子をヘルミアスが養子に取って、その養子がエウメネスを産んだとすると、ヘルミアスがメントルによって弾劾されスーサで死に、領地を奪われたときに、エウメネスもまた、アリストテレスとともにマケドニアに亡命する必要が生じる。

エウメネスはのちにアルトニスと結婚してフリュギア・ヘッレースポントスに領地をもらうのだが、これはつまりエウメネスがヘルミアスとアルタバゾスの領地を合わせて継承したことを意味しないだろうか。

エウメネスとアルトニスは東征に出る前にすでに結婚していたか、或いは婚約していた可能性が高いと思う。本作とはまったく違う展開となるが、そのとき子供ももういたのかもしれない。プトレマイオスとアルカタマも同じかもしれない。

アリストテレス

つい最近、ピタゴラスの定理とも呼ばれる三平方の定理が実はメソポタミアから出土した3700年前の粘土板に記されていたというニュースが出た(Daniel F. Mansfield et al., Foundations of Science 2021)。

エラトステネスはエジプトで活躍したギリシャ人で、地球の直径を測ったと言われるが、彼は普通のエジプト人で、単にヘレニズム世界に住んでいただけかもしれない。ギリシャ人はペルシャ人だろうとフェニキア人だろうとみんなギリシャ風の名前で呼び変えた。もしアレクサンドロス大王が現れずアジアにヘレニズム世界が実現しなければエラトステネスはもっと違う名前で呼ばれていて単にペルシャの数学者と呼ばれていただろう。

アリストテレスもまたおそらくは百科事典的な人であり、ヘレニズム世界の学問を集大成した、または、ヘレニズム世界の学問の多くが、アリストテレスの名によって権威づけられただけであろう。アリストテレス本人が直接手がけた業績というものは、あったとしてもそれほど多くはなかったはずだ。

モナリザを描いたレオナルド・ダ・ビンチも実は当時巷に流行していたアイディアを書き留めたテクニカル・イラストレーターに過ぎず、まして万能人ではなかったと考えられている。

私がこの作品で描いたアリストテレスの姿は決してフィクションではない。ウィキペディアでヘルミアス(アリストテレスの養父)やピュティアス(ヘルミアスの養女でアリストテレスの妻)などの項目を見ればわかるように、アリストテレスは単なる学者ではなく、マケドニアの政治、しかも、フィリッポス二世やアレクサンドロス3世のアジア進出に深く関与した人であることがわかる。ウィキペディアに引用されている少なからぬ論文(たとえば Hermann Chroust: Aristotle and the Foreign Policy of Macedonia, The Review of Politics Vol. 34, No. 3, Jul., 1972, pp. 367-394)を一瞥しただけでもある程度のことはわかる。

ヘルミアスはアカデメイアでプラトンに学びそのときアリストテレスと会って、彼をアッソスへ連れて行き、姪のピュティアスと結婚させて養子にしたともいう。

或いは、アリストテレスが姉の嫁ぎ先アタルネウスで養育されていたときに彼の学才を見いだして養子にしたともいう。まあ、どちらでも良いことだ。

アリストテレスはアカデメイアやリュケイオン、ミエザなどの学舎で活躍し、その特別優れた学識で有名になった人というわけではなく、アレクサンドロス三世の東方遠征、ヘレニズム世界の成立に関与した学者だったからこそ、つまりアレクサンドロスのおかげで今日まで名を知られた学者になったのだ、と理解すべきである。

アリストテレスがヘルミアスのエージェントとしてマケドニア宮廷で活動していたのは間違いなかろう。その余技としてアリストテレスはアレクサンドロスの家庭教師をやっていた。アレクサンドロスがアリストテレスに思想的な影響を受けたのは当然と言える。

アリストテレスは学問的というよりは政治的により重要な歴史的役割を演じた人だったのではないか。

スーサの合同結婚式が政略的なものであり、アレクサンドロスがラオクシュナの父ヴァクシュヴァルダとともに計画したものであるのはほぼ間違いなかろう。そしてその縁組みがいきなりえいやっと決まったのではなく、あるものはかなり早い時期から、つまり東征の途中から既定路線になっていたのではないかと思えるのである。

アリストテレスがその著書『アテナイ人の国制』でペイシストラトスの治世を高く評価しているのはよく知られている。アリストテレス自身がアタルネウスの僭主であったからと考えるとうまく説明が付くような気がするではないか。

エウブロス

エウブロスという人はアレクサンドロスの時代に2人いる。1人はアテナイの財政担当者。もう1人はアナトリア北部黒海沿岸の銀行家でアタルネウスの僭主。私はこの2人は、単に名前が同じなだけではなく同一人物なのではなかろうか。というより、同一人物であってくれると、ずっと話として面白いと思うのである。

アテナイのエウブロスは、対マケドニア戦争で破綻寸前となったアテナイの財政を、無駄な戦費を削減するなどして立て直し、フィロクラテスらとともにマケドニアと交渉して和平を探っていたが、主戦派のデモステネスらによって失脚させられ、カイロネイア戦以後は完全に沈黙した(おそらく死去した)。

アタルネウスのエウブロスは、ペルシャの役人に金を貸してアッソスとアタルネウスをその担保としたが、返済されなかったので、アッソスとアタルネウスを所有することになった人である。彼の奴隷がヘルミアス。ヘルミアスの養子になったのがアリストテレス。

どちらのエウブロスも金融業者であることが共通している。アテナイのエウブロスは戦費や祭礼費などをやりくりしてアテナイの財政を立て直したと言われているのだが、実際は彼自身が資産家であり、金貸しであったのではなかろうか。

もしこの2人のエウブロスが同一人物であるとすると、ヘルミアスはエウブロスよりも早く死んだことになる。

私は本作でエウブロスが彼の死に際してヘルミアスを後継者に指名したのだと思っていたが、実はエウブロスとヘルミアスは同世代の人であり、ヘルミアスは主にペルシャ宮廷で、エウブロスはアテナイの政界で、共通の目的のために動いていたと思える。

おそらく、かなり高い確率で、エウブロスはアルタバゾス朝の家臣の1人であっただろうと思う。つまりエウブロスは(一匹狼の)銀行家というよりも、アルタバゾス艦隊の財務担当者だったとするとしっくりくる。さもなくば、アルタバゾスはエウブロスの顧客の1人であって、アルタバゾスはエウブロスに借金を返済する代わりに、エウブロスに所領の一部を与えたか、その管理を委ねたのだろう。

ヘルミアスが奴隷であったのはおそらく戦争の捕虜になったからだろう。もともとギリシャ人(アテナイ市民?)で、アルタバゾス軍と戦い捕虜となり、エウブロスに仕えるようになったのかもしれない。

アリストテレスとエウメネスはヘルミアスに仕え、ヘルミアスはエウブロスに仕え、エウブロスはアルタバゾスに仕えていたと考えると、いろんなことがうまく説明がつく。

ディアドコイ戦争

フィリッポス2世の長男アリダイオスをフィリッポス3世に立てた黒幕はやはり、フィリッポス3世の後見人に収まったクラテロスで、アリダイオス同様アナトリアを地盤とするアンティゴノスはクラテロスの協力者であっただろう。

ペルディッカスはあくまでもアレクサンドロス3世の嫡男アレクサンドロス4世を立ててその摂政となった。

通常ギリシャでは自分と同じ名を子につけることはない。普通は祖父の名を子につける。アレクサンドロス4世の場合は例外的に、アレクサンドロス3世がすでに死去していたので、その正統な後継者という意味で、父と同じ名をその子にも付けたのだろうし、その名付け親はペルディッカスであったはずだ(ただしプトレマイオス王朝では父子連続してプトレマイオスを名乗っている。これはエジプトの王朝だからか?たとえばエジプト第20王朝ではラムセス3世からラムセス11世までずっとラムセスが続く。アレクサンドロス3世もエジプトを征服してファラオになったのだから、エジプト風に、子に自分の名を付けてもおかしくはない)。

本来ならばアレクサンドロス3世の臨終に際して印綬の指輪を渡されたペルディッカスが王に即位していてもおかしくはなかった。そうしなかったのは彼が慎重を期したからであろうし、アルゲアス朝の王位継承の歴史を熟知していたからだ。アルゲアス朝では王族がまず摂政となり後に即位することも少なくない。

ペルディッカスがエウメネスを伴い最初にやった仕事というのがアナトリアとエジプトへの出兵だが、この二つの地はいずれもアルタバゾスの拠点であり、それゆえにバルシネやエウメネス、ネアルコス、そしてバルシネの子ヘラクレスのためにやったことのように思われる。

しかしながらエジプトはプトレマイオスが、アナトリアはアンティゴノスがすでに実効支配していたと思われる。この2人にとってペルディッカスの存在は面白くなかったかもしれない。またこのときすでにマケドニア本国を実効支配していたアンティパトロスと、フィリッポス3世を擁しアンティパトロスと組もうとしているクラテロスもまた反ペルディッカス派となったかもしれない。

ペルディッカスはエジプトへ遠征したが、ナイル渡河に苦戦した、とされる。これもかなり疑わしい。私にはなんとなく、ペルディッカスが不意打ちをくらったか暗殺されたように思われる。この時期にいわゆるディアドコイ戦争と呼ばれるような大規模な戦争が起きるとは考えにくく、逆に、この事件がディアドコイ戦争を惹起したのだろう。

ペルディッカス陣中ではおそらくプトレマイオスに呼応した者が首謀者となって反乱をおこし、ペルディッカスを暗殺した。アレクサンドロス3世が遺したという「最も強い者が後継者となればよい」という言葉はおそらくこのディアドコイ戦争を正当化するため、うまい口実のために後から生まれたものだろう。またペルディッカスがアンティパトロスとオリュンピアス、どちらと組むかためらったためにアンティパトロスを怒らせた、という話もとうてい信じるに足りない。おそらく後世、おもしろおかしく作った話だ。

プトレマイオスがエジプトの太守になったというのもおそらくはペルディッカスが死んだあとに既成事実化されたのだろう。

このとき急にセレウコスが台頭してきてバビュロン太守となっているのは不審であり、セレウコスとプトレマイオスが共謀してアレクサンドロス3世の遺産を山分けにした、と考えられなくもない。では彼らはそんなに腹黒いやつだったのか。そしてそんなにペルディッカスには人望がなく、皆から恨まれていたのか。

そうとは言いがたいと思う。アレクサンドロス3世でさえ何度も暗殺されかけた。ペルディッカスが何か偶発的な原因で暗殺されても全然不思議ではない。

ペルディッカスが亡くなったときに、セレウコスには軍掌握と民心の安定に功績があったものと思われる。

カンブージャ2世がエジプトを遠征している途中にダーラヤヴァウ大王がバビュロンで実権を握ったのと状況はよく似ている。ダーラヤヴァウの陰謀によってカンブージャが暗殺されたのか。それとも暗殺されたのでダーラヤヴァウが事態を収拾したのか。なんとなく後者のほうがあり得る気がしてきた。

エウメネスは結局彼の妻アルトニスの一族、つまりアルタバゾスやバルシネ、ネアルコスのために戦うことになり、同時にエウブロスやヘルミアス、アリストテレスらの利権を引き継ぐことになり、必然的にバルシネとアレクサンドロス3世の子ヘラクレスを君主に戴く立場に立たされたのだと思う。必ずしもペルディッカスの後継者というわけでもない。アルタバゾスの勢力圏は地中海沿岸、アナトリアからシリア、エジプトまでを含むから、ほとんどすべての勢力を敵に回すことになったはずだ。ところがネアルコスはアンティゴノスの部下になってしまったから、エウメネスは孤立無援となっただろう。

アレクサンドロス3世麾下の武将で最後まで残ったのはセレウコスとリシュマコスで、セレウコスはリシュマコスを破りアナトリア全土とトラキアを合わせ、マケドニア、ギリシャに進駐しようとしたが、彼もまた暗殺されてしまった(プトレマイオスとアンティパトロスの娘エウリデュケの間に生まれた、父と同じ名のプトレマイオスに)。

いずれにしてもセレウコス朝とプトレマイオス朝が直接対決した形跡はない。プトレマイオスはアンティゴノスに逐われたセレウコスをエジプトに匿い、ともにアンティゴノスを攻めて、セレウコスをバビュロンに戻したこともある(BC314~309、第3次ディアドコイ戦争)。セレウコスとプトレマイオスが終始同盟関係にあったのはまず間違いあるまい。

セレウコス朝の首都はシリアのアンティオキアだと言われるが、もともとシリアはアンティゴノスの支配地で、アンティオキアよりも先にセレウキアを首都として作ったのだと思う。後にセレウコス朝は東方領土を徐々に失い、ついにスーサ、セレウキアも落ちてメソポタミアを失い(BC140)、以後アンティオキアが実質的な首都になった、というだけではなかろうか。