「こうなると、俺が剣舞でも披露せねばならんようだな、」とラオメドンが立ち上がり、剣を抜いて舞い始めたので、太鼓や笛が調子を合わせた。ラオメドンが座っていた席に入れ替わりに女が座った。
「一杯飲ませておくれよ、兄さん。」
「ああ。」「あたしの名前は、ナンム。」
「ナンム?」
「うん。母なる海ナンム。又の名を、ボルシッパのナンム。」
「ボルシッパ?へえ。君もボルシッパの生まれかい。」
「あんた、ほかにもボルシッパ生まれの女を知ってるのかい。」
「いや。女じゃない。男の子だ。ボルシッパのナブーっていうんだ。知ってるかい?」
「さてねえ。ボルシッパにもナブーはいくらでもいるからね。」
「そうだろうね。」
「あんたの名は?」
「私かね。私は、エウメネス。」
「エウメネース?なんだかギリシャ人みたいな名前だな。」
「よくわかったね。君はギリシャ人の知り合いが多いのか。」
「商売だからね。近頃はごひいきさんが多いよ。」
「ギリシャ人の客が?」
「うん、そうさ。おやあんた、変わった指輪をしてるね。ムシュフシュ?」
「そう。ムシュフシュ。」
「どこで買った?バビュロンで?」
「うん。年始廟前の土産物屋で。」
「良い指輪だね。あたしにくれないかい。」
「これを?」私はその、ナンムと名乗る女の顔をまじまじとみた。
この指輪をこの女にくれてやるのは、別になんということもない。一度は盗られて、戻ってきた指輪だ。珍しくもなんともないただの土産物で、いまさらそんなに惜しいわけでもなく、愛着があるわけでもない。しかし、一応身銭を切って、それなりの対価を支払って買ったものだ。と、言うよりも、見ず知らずの女にこんな贈り物をして、何かと勘ぐられるかもしれないし、変につきまとわれてもめんどうだ。
「いやなのかい。」
「これを君にあげたら君は私に何をしてくれるんだ。」
女はにっこり笑った。
「なんでもしてあげようじゃないか。結婚してあげてもいい。」
「なんだそりゃ、いきなり。もしかして君、私を気に入ったのか。」
「うん。」
私はいろいろ考えるのもめんどくさくなって、指輪を抜いて彼女にあげてしまった。
「ありがとね。大事にするよ。」
そういう彼女の笑顔が、錯覚に違いないが、嘘偽りの無い、商売っ気の無い娘っぽくて、ちっとも好みのタイプでもないのに、私はどぎまぎしてしまった。
がらにもないことをしてしまった。なんだかかっこつけたい気持ちがわいてきて、私は「じゃあ、今日は楽しく飲ませてくれてありがとう。」そう言って一人帰路に就こうとした。
「おい、ちょっと待てよ。」
ラオメドンは親切にもエウフラテスの渡し場まで私を送ってくれた。
舟橋を渡り、向こう岸にたどり着こうとしたところで、一艘の葦舟がするすると橋に近づいてきて、横付けした。
かまわず通り過ぎようとすると、一人の女が船から下り立ち、私に声をかけた。
「エウメネス。」
「えっ。」
「あんた、あちこちで私のことを嗅ぎ回ってるらしいね。」
「誰だい、あなたは。」
「困るんだよなあ。私は、表に出ちゃいけないことになってるんだからさ。」
「強盗か。それとも、マヅダーヤの回し者?」
「どっちも違う。あんたが会いたがっているタイスさ。」
タイス。
この女がタイスか。
暗がりの中、目だけが光っていて、どんな顔なのかよく見えない。
私は、なんと答えてよいか迷って、しばらく言葉が出てこなかった。「嗅ぎ回ってるわけじゃない。でもなんであなたがそのことを知っている。」
「ラオメドンやハルパロス、それにマヅダーヤにまで、私のことを聞いて回っていただろう?」
「彼らから聞いたのか?」
「違う。」
「じゃ、誰に?」
「私ゃね、この町じゃちょっとした顔役なんだよ。」
「はあ。どんな?」
「ラオメドン、ハルパロス、そしてマヅダーヤ。みんな重要人物だろ。そいつらには私の仲間が付けてあって、逐一私に報告してくるのさ。」
「なぜそんなことを。」
「そりゃ、一つには、アレクサンドロスがいろんなことを知りたがってるからね。」そうか。王は人と会いたがらないだけで、人が何をしているかは知っておきたいのだ。そのためのスパイか。「もう一つには、プトレマイオスが私を王の目付役として付けたのさ。」
「なるほど。」十分にあり得ることだ。近衛隊長のプトレマイオスが王の挙動を知らぬはずもない。秘密裏に監視役をつけた。それがこの女なのだ。
「人が通ると面倒だ。さっさとこの船に乗ってくれ。話はその後だ。」
彼女がそういうので、なにやら恐ろしい気もするが、言うことに従った。
私が乗ると、女は棹を橋桁に突き立てて、船はさざ波を立てて水面を滑り出し、橋を離れ、やがて川の流れのただ中に出た。
いわゆる屋形船だ。
「中に王もいるのか。」
「いやここにはいない。」
「ほかには誰か。」
「私とあんただけさ。中に入ってくれ。」
「こんな夜中に二人で船遊びかい。」
「はは。殿方はみんな、そんな趣向がお好きだろう。」
屋形の中にはランプが一つ灯されていて、やっと彼女の顔がはっきりと見えた。
夢でみた顔に似てる気がする。
目はバルシネのように鋭く厳しい。
でも、顔はほっそりとしていて、というより骨張っていて、バルシネみたいな下ぶくれじゃない。
バルシネは私より年上の年増女だが、彼女は、少女ではないがまだかなり若い。
「私から言いたいことは三つある。一つ目は、これ以上、王のことは詮索するな。これは王命だと思ってもらっていい。二つ目は、やはりこれ以上、私のことを探したり、私の名を出したりするな。私の邪魔をするということは王の邪魔をすることになる。そう認識してくれ。そして三つ目。今後私と出会っても、他人のふりをしてくれ。その代わり、何か私に聞きたいことがあれば今全部ここで聞いておいてもらっていい。私もなんでも話そうじゃないか。」
「わかったよ。つまり、今までの話を総合すると、君はプトレマイオスのスパイで、王のお目付役ということだね。」
「そういう役回りを演じることもあるけど、私たちの関係はそんなに簡単なものじゃない。」
「君とプトレマイオスの関係を説明してくれ。君はアテナイの娼婦で、プトレマイオスの愛人となり、たった一人女としてアジア遠征についてきたってことでいいのか。」
「そりゃまったくあんたの見当違いね。」
「どう違うんだ。」
「プトレマイオスは王の近衛隊長であると同時に、兵士の世話係だ。」
「うん。」彼の本来の仕事は、王の身辺警護だが、軍の規律を保ち、兵士らの不満をあらかじめ解消してやるという、人の目に見えない、縁の下の力持ちみたいな仕事をこなしてきたんだ。
「彼はいつも苦悩していた。兵士らがいつも、行く先々の女たちと問題を起こすってことをね。」
「アテナイ、テーバイ、コリントス。町の娼婦たち。」
「それに、トラキアやケルトの蛮族の娘たちとも。」
「君、ずいぶん詳しいな。」
「ペルシャ遠征が思いやられる、どうしたらいいのかって、彼はテーバイの娼婦組合を訪ねて聞いた。」
「テーバイの娼婦組合?フリュネの?」
「そうそう。よく知ってるじゃないか。テーバイの娼婦組合長がフリュネ。」
「つまりプトレマイオスじきじきにフリュネに相談に行った?」
「ま、そういうことさ。そしてフリュネはプトレマイオスに私を紹介したの。私ゃたまたま、旅芸人まがいの仕事をしながら、ペルシャから流れ流れて、アテナイに寄留していたからねえ。」
「そうかつまり、君はもともとペルシャ人なんだね。」
「ペルシャ人とはずいぶん雑な呼び名だね。私ゃ生粋のバビュロン人だよ。」
「それで?」まさかプトレマイオスはギリシャにいた頃からここバビュロンまで来ることを予測していたのだろうか。あり得ない。しかし王はよく、クル王子のバビュロン攻めの話をしてたからなあ。プトレマイオスがいざという時のためにタイスを雇った可能性はなくもないか。
「プトレマイオスは私に、兵士らにどうやって女をあてがうかって仕事を任せた。私は別に、やめたくなったらいつ辞めてもいいって条件なら引き受けますよって言って、それでいいよってことになって、それで引き受けた。」
「君が顔役とは?」
「ペルシャ帝国領内を旅する行商人たちには、彼ら独自のつながりがあるんだよ。私ら娼婦にもまたしかり。よそから客が来たときは泊めてやるし、自分がよそに旅するときには客として泊めてもらう。そういうもちつもたれつの、仁義ってものが、この渡世にはあるんだなあ。」
「へえ。渡世の仁義ね。で、君は、王の遠征に、どこまで付き合う気だ。」
「さあ。でもね。」
「なんだ、思わせぶりな。」
「だんだんおもしろくなってきたんだよ、王の酔狂がさ。」
「どうして。興味が出た?」
「退屈じゃないか。人生ってやつはさ。私ゃこれでも、あんたにはどうみえるかしらないが、はたちになるまでに、私ゃありとあらゆる経験をしたよ。」
「それで?」
「アテナイについたときには抜け殻みたいになってた。そんなときにプトレマイオスに声をかけられた。おかげで今はずいぶん気が紛れる。」
「王の店で女房代わりに絨毯を商っている?」
「うん。それはあながち嘘でもない。」
「君はしかしここが地元だね。」
「それがどうした。」
「君は王とともにここまで来たが、ここが終着なんだろ。」
「どうかな。今のところ、サマルカンドだろうとインドだろうと、とことんどこまでも付いてこうかって、思い始めた。私も王と同じさ。一箇所に留まっていると腐っちまう。」
「サマルカンドやインドにも、君らのいう渡世の付き合いってものがあるのかね。」
「ははっ。」タイスは笑った。「あるさそりゃあ。人情ってものはね、世界中似たり寄ったりなもんさ。私たち娼婦や旅芸人の情報網を甘くみてもらっちゃこまる。ある意味私たちほど世界の隅々まで熟知してる者はいないよ。」
「そうするともしかしてピュティオニケを知ってるかね?」
「おや、彼女の知り合いかい、あんたは。」
「うん、一晩だけ世話になった。」
「いつ。どこで。」
「半年ばかり前かな。スパルタで。」
「スパルタ?変なところで世話になるもんだな。」
「もちろん娼館じゃないよ。王宮であったのさ、彼女に。ハルパロスの子を産んで堅気になって、その子を食わせるためにスパルタの王宮で、楽団員として働いてるって言ってたよ。」
「ふーん。」
「アテナイじゃずいぶん売れっ子だったってピュティオニケは、自分のことを言ってたけど。」
「ああ。しかし、私の人気にゃかなわなかったけどね。」
「へえ?」
「まあたしかにピュティオニケは美人だったね。とびきりの美人だった。
しかし無芸なんだあいつは。しかも客を客とも思ってない。
いつもムスッとすましてやがって。踊りも踊らない。歌も歌わない。お愛想も言わない。楽器も弾かない。ただ男どもにかしずかれているだけ。若いうちはそれでもいいが、美貌が衰えてくるとね、芸が身を助けるんだよ。
みかねて忠告したこともある。もっと愛想よくしてやんなよって。でもね、みんな私が無愛想なほうが喜ぶのさ、つれなくされりゃされるほど思いが募るんだって。あの子はそう言ってた。」
「そういう趣味の男もいるかもね。」
「あんたは。」
「えっ。」
「あんたの女の趣味を聞いているんだよ。無愛想が好きかい?」
「いやあ。わかんない。どっちもどっち。でも、私と話したときは別に、彼女は普通の女みたいに話をしてたよ。」
「そうかい。じゃあ気に入られたのかね?」
「客相手じゃなかったからじゃないか?環境が変わったからかな。スパルタってところはほんとに変なところだ。人の性格まで変えてしまうよ。あるいは、ハルパロスの知り合いに会えてうれしかったんだと思うよ。」
「そういう君はずいぶん芸が達者なんだろうな。」
「そりゃそうさ。あたしが本場シリア仕込みのベリーダンスを披露すりゃ、みんなイチコロ、めろめろだったよ。」
「へえ。君もベリーダンスをやるのか。私もさっき見たよ。ええっと。なんて名の娘だったかな。」
タイスの目が光った。「ナンムだね。ラオメドンとこにいる。」
「ああ。」
「一つ言っておきたいことを思い出した。」
「なんだい。」
「ナンムのことさ。」
「彼女がどうした。」
「あいつはあたしのかわいい妹みたいなものなんだ。」
「ふうん。」
「悲しませちゃ承知しないよ。」
「悲しませるとは、なんだ。」
「遊んで喜ばせて、期待させておいて、ぽいっと捨てる。」
「君はヘファイスティオンみたいなことを言うね。そんな男に見えるか、私が。」
「あたしがナンムの代わりにあんたの相手をしてやるよ。」
「娼婦で、プトレマイオスの愛人で、今は王と一緒に暮らしてる君がか。」
「いけない?」
「別にいけなかない。」
「あんた、もうちょっと、酒でも飲むか?」
そうか。ナンムはあの後きっと、タイスに会って、私の話をしたんだ。ムシュフシュの指輪を見せびらかして。それでタイスは、近頃自分をしらべてる私のことを思い出し、私の顔を拝んでやろうって気になったんじゃないか。
この女は要するに私を警戒しているんだ。プトレマイオスや王のように、自分の監視下に置いておこうってつもりなのだろう。
これ以上詮索するなと言ったり、もう少し飲もうと言ったり。妹分の女を泣かせるなよと説教したり。よくわからんやつだ。
よろしい。毒を食らわば皿までだ。もうちょっと付き合ってやるか。
「ラオメドンのところでもうだいぶ食べて飲んだんだが、でもいただくか。」実はまだ飲み足りなかったんだ。
「そうしな。この先まだまだ物騒だ。慣れないのにここで夜遊びなんかするもんじゃないよ。今一人で夜道を出歩くのは死にに行くみたいなもんだ。朝まであたしんところで飲んでいきな。」
「そうするよ。」
その後はもう何を話したかも覚えちゃいない。どんな挨拶をして彼女と別れたかすらも。もう若くないんだからこんな飲み方したら体を壊してしまう。二日酔いでふらふらになって昼頃やっと我らの居留地にたどり着いた。
