パールサプラへ入り、万国の門をくぐるとその奥にペルシャの栄華が残っている。
焼け焦げた宮殿の跡地だ。
万国の宮殿とも、ハシャヤーラシャーの宮殿とも呼ばれていた。
もともとこの宮殿を建てたのはダーラヤヴァウ大王であったが、ハシャヤーラシャー一世が万国の民を搾取使役して大規模な増築を行い、ここに万国から集めた財宝を貯め込んだのである。
この宮殿こそはペルシャ帝国の権威の象徴であるとともに、万民の怨嗟の的であった。
ハシャヤーラシャーが驕り高ぶり、この宮殿を建てたために、世界万民の心はハカーマン家から離れ、帝国の信頼は揺らぎ、ついにはマケドニアに敗れ去ることになった、と言って過言ではなかろう。
そうした意味では我がギリシャの、アテナイのパルテノン神殿とよく似ている。アテナイが衰退したのはまさにあの贅を尽くし華美を極めた神殿のせいだ。
王はかつてこの宮殿の略奪を許し、火をかけた。
多くの人が王を批判した。
王は復讐心に駆られて理性を忘れたのかと。
パルメニオンは言った、すでにあなたは勝者となり、世界の王となったのです。自分の持ち物を焼くとはもったいない、と。いかにもパルメニオンらしい言い分だ。
私はセレウコスを誘って王宮跡地を散策した。
「うーん。」彼は少し考え込んだあと、語り始めた。「私もパルメニオンの意見に賛成です。世界の王らしく、慈悲と寛容を示していれば、王はきっと諸国万民に愛される王になったでしょうに。王は常にペルシャ王室に敬意を払い、廃れたままになっていた王墓を復興さえしました。なぜ敢えてこんな蛮行をやらかしたのでしょう。私はずっとそのことを考えていました。」
「そうかい。私には王の考えがわかるよ。すごくわかる。ハカーマン家の王墓を保全しつつ、一方でなぜ敢えてあんなことをしなきゃならなかったか。そしてそれがなぜパルメニオンには理解できなかったか。王がいかに孤独かってことが。」
「へえ。なぜです。」
「一言で言えば、ハシャヤーラシャーが世界を侵略し搾取した、その象徴がこの建物だったからだろうと思うよ。」
「つまりは復讐ですか、かつてペルシャがギリシャに侵攻した戦の。」
「いやいや。ちょっと違うと思うんだ。私はマヅダーヤに聞いたことがある。彼がパールサプラ侵攻にバビュロンの兵を貸すのは、ペルシャに持ち去られた神像を取り返すためだ、と。」
「神像?」
「かつてバビュロンの神殿、エサギラに安置されていた、バビュロニアの国家神マルドゥクの像だよ。その像はペルシャに略奪され、あの宮殿に奉納されていた。バビュロニア兵が宮殿に殺到し、マルドゥク像を探し当てて持ち出すと、バビュロニア以外の諸国の兵も我先に宮殿に突入し、かつて彼らが奪われた神像や財宝を持ち出した。王はそれを黙認した。荒し尽くされた、空っぽの宮殿に火をつけるよう、王は命じた。」

「なるほど。略奪のきっかけになったのは、もともとエサギラに祀られていて、ペルシャに奪われたマルドゥク像だったわけですね。今その像はもうバビュロンのエサギラに戻っているのでしょうか。」
「たぶんそうなんじゃないかな。ま、ともかく、王はあくまでも略奪を禁じて、この宮殿やその財宝を、パルメニオンが言うように、そっくりそのまま自分の物にすることもできたはずだ。つまり王がそれらの財宝を独り占めにしてしまえば良かった。だが、王はパルメニオンとは違った。王は自分でそれらの財宝には手をつけず、諸国の民がやりたいようにやらせた。ペルシャに対してやられたことを、やりたいように復讐させたのさ。」
「そうだったのですかねえ。」
そう。そのことについて、他でもない、あの、プトレマイオスの情婦タイスという女が深く関わっていた。
「この宮殿は焼かなくてはなりません。」
タイスはそう言った。
宮殿を焼く?
誰一人としてそんなことを考えた者はいなかった。
これまでに城や砦を攻撃することは何度もあった。
しかしすでに占領したこの宮殿をなぜ焼く必要がある。
しかし次第に兵らはタイスの狂気に飲み込まれて、焼くのが当然だという気にさせられていった。
彼女はマケドニアに従軍したアテナイの娼婦の一人であったが、他の娼婦らがヘッレースポントス海峡まで見送ってみな引き返した後にも、彼女だけは立ち去らず、海を渡って、その後もずっと遠征に従っていた。
クール大王以来、ペルシャの王族は、妻子らをみな軍中に引き連れて諸国を巡る習慣があった。万国から集められた人質たちも同様に従軍した。
しかしながらマケドニアにはそんな風習はない。兵士らはたとえ妻子持ちであろうとも、家族は郷里に残して、自分だけ出征して王に従う。もちろん昔のマケドニアは、遠征すると言ってもせいぜいイストロス(ドナウ)川くらいまでだったろう。辺境の森林や山岳に棲む種族を征伐するのだから、行く先々の娼館で兵士が娼婦を買う、なんてこともなかったし、娼婦を愛人にして各地を連れ回すこともなかった。
ペルシャ軍くらいに大規模だと軍の組織に組み込まれた娼婦というものもいたかもしれない。しかしマケドニア軍は急に大きくなって、専門の娼婦を連れ回す制度すらなかった。
このタイスくらいだ、王軍にずっと付いてきた女というのは。
プトレマイオスが無理矢理この女を囲って連れてきた?それとも女が勝手についてきて、プトレマイオスもそれを許した?王軍の中でも一番堅物なプトレマイオスがなぜこのタイスという女を連れ回したのか。
プトレマイオスの天幕で何度か彼女を見たことがある。彼の身の回りの世話を焼く侍女という風の、非常に陰気な女で、私は彼女とめったに口をきくこともなかった。しかし彼女はバビュロンに着くと急に張り切りだして、私こそは娼婦の親玉だと言わんばかりに率先して、バビュロンの娼婦らを仕切りだした。
プトレマイオスがタイスに娼婦の仕切り屋をやらせようと思いついたのか。それともタイスが自分からプトレマイオスに売り込んだのか。それとも二人で相談してそんなことを企んだのか。もしかしてヘッレースポントス海峡を渡るときからすでにタイスには将来そうした仕事を任せようという計画があったのか。だとすればプトレマイオスはずいぶん手回しのよい、先の読める人だということになるが、いくらなんでもそんなことはあるまい。王があそこまで勝てるかなんてことを予測できた人はいない。プトレマイオスですらあり得ない。
タイスはギリシャ人ではあるまい。つまりペルシャ女だ。だから海峡を渡って着いてきた。ただそれだけだったかもしれない。タイスはもともと、ペルシャ軍に従って各地を巡る娼婦の一人だったのではあるまいか。あるいは、ペルシャ王族に従う侍女かなにかだったか。だからバビュロンにいたこともあれば、アテナイにいたこともあったのだ。そんなペルシャに土地勘があって、あちこちの娼館に顔が利いて、かつ娼婦を束ねる素養を身に着けた彼女を、プトレマイオスはおそらく、スパイにも使っていたのだ。
王は戦がうまい。しかしそれ以外は無能と言って良い。
プトレマイオスは王を制御しつつ内政を裁かねばならなかった。そのためにタイスを使った。
近衛長官プトレマイオスの動きはわかりにくい。王やペルディッカスと違って。あああの時のアレはプトレマイオスの仕事だったんだなと気付くのは、万事が順調に片付いた後だ。
イッソスの後、王はバルシネと別れ、そしてラオクシュナとはまだ出会う前であったから、タイスという女が王を誘惑する心の隙があった。
タイスは王に色目を使い始め、バビュロンで王が一時所在不明になった頃、タイスは王と町中の下宿で同棲していた。タイスはプトレマイオスから王に鞍替えした、と噂されたが、実は最初からタイスはプトレマイオスが王を監視するために付けたのかもしれない。もちろんプトレマイオスとの縁も切れたわけじゃなかったと思うが。
タイスが王の子を孕んでいたら、それはそれで一大事だったが、そうはならなかった。たとえ彼女が王の子を産んだとしても、娼婦が産んだ王子などマケドニア王朝史上いくらでもいる。なるようにしかならない。
タイスはハシャヤーラシャー宮殿が焼け落ちた翌日、突然姿をくらませた。プトレマイオス配下の士官らが何十人か同時にいなくなったので、プトレマイオスが彼女の脱走を手引きしたのではないかと、私は見ている。しかしそれ以上、王とプトレマイオス、そしてタイスの関係に立ち入ろうとするものはいなかったので、あれ以来、タイスの件はだんだんにみなの記憶から薄れていった。
我が軍がパールサプラを落としたとき、タイスは王に、皆が見ている前で、この宮殿を焼き払えば王の偉大な業績の一つとして語り継がれることになるでしょう、と進言した。
だから王は情婦タイスにそそのかされて宮殿を焼いたのだと考えている者が多い。パルメニオンなんかもそうだ。
私はプトレマイオスに聞いたことがある。なぜタイスという女はあんなことをしでかしたのでしょう、と。
プトレマイオスは言った。
「タイスか。もう私はあいつのことは思い出したくもないし、話もしたくないのだが、あいつはほんとうに手癖の悪い女だったよ。
あんな女と手を切れずにいた自分が悔やまれる。
思うに、宮殿で略奪があったとき、彼女もまたどさくさに紛れてたいそうなお宝を手に入れたのだと思う。つまり、一生食うに困らぬような、どえらい財宝か何かを、こっそりと自分のものにしたのだ。
王はみんなの前で言った。
お前たちがこの宮殿から略奪するのはもっともだ。それはお前たちの当然の権利だ。
もともとバビュロニアの物をハシャヤーラシャーがとってそれをバビュロニア人が取り戻すのには、正当な理由がある。
正しくない方法でペルシャが人民から搾取した財貨を俺は我が物にする気は無い。むしろ人民に返してやりたい。
ギリシャ人がギリシャからとられたものを取り返し、アッシリア人がアッシリアからとられたものを取り返す。それも良い。
バビュロニアのものはバビュロニアへ。ギリシャのものはギリシャへ。アッシリアのものはアッシリアへ返す。
しかし、正当な理由もなく財宝を持ち出すのは泥棒だ。
もしそんなやつがいたら、今のうちにもとのところへ戻しておけ。今なら処罰することはない、と。
しかしおそらくタイスは盗んだものを返さなかったのだ。それで皆を扇動して宮殿を焼いて証拠を隠滅し、逐電したのだろうと、私は思っている。」
そうだ。
実はタイス以外にも多くの者が、どさくさに紛れて何かしらの財宝を着服した。少なからぬ者たちが後ろめたい思いをしていた。だから、燃やして、何もかもうやむやにしてしまおうと思ったのに違いない。
ギリシャの娼婦はたいてい音楽家の格好をしている。ずきんをかぶって、ぶかぶかの服を着て、背中に竪琴か琵琶を背負っている。
パールサプラの晴れた空の下に、続々と宝物が運び出される。
その中に一体の女神像があった。兜をかぶり、右手に槍を持ち、左腕にフクロウが止まっている。一人、また一人とギリシャ人たちがその周りに集まってきた。

人々は口々に言った。
「アテナだ。」
「これはアテナではないのか。」
「なぜここにアテナ像が。」
タイスは歩み出て言った、「みなさん見てください。
これこそは、ハシャヤーラシャーがアテナイのアクロポリスから持ち去った我が守護神アテナの像です。」
事実であったかどうかは定かでないが、皆はそれを信じた。
タイスは、アクロポリスで奏される懐かしいアテナイの楽曲をひとふし奉納し、演説を始めた。
「テルモピュライでレオニダス王を撃ち破ったハシャヤーラシャーの大軍が、いよいよアテナイに接近すると、市民らはテミストクレスの布告に従って、みなサラミス島に避難しました。しかし一部の市民らは、ハシャヤーラシャーが世界中から戦利品として神像を蒐集し、パールサプラに建てた万国の宮殿に収蔵し、万民に見せびらかしていると聞いて、激昂しました。
アテナ像を奪われたくない市民らはアクロポリスに立て籠もりました。しかし必死の抵抗も虚しく、ハシャヤーラシャーはアクロポリスを蹂躙し、市中に残った市民らを皆殺しにし、アテナの神殿を破壊し、アテナ像を奪い、神殿を焼きました。
アテナ像はやっと私たちの手に戻りました。
そして私たちは今、ハシャヤーラシャーに報復するため、この宮殿を焼かなくてはならないのです。」
そうかもしれない。でもペリクレスはその後、デロス同盟の同胞を搾取してアクロポリスを再建し、かのパルテノン神殿を築いたのだ。なんという歴史の皮肉か。
タイスはみんなに自分が生粋のギリシャ人で、アテナイの娼婦だと思い込ませていたが、実はそうではなかった。ギリシャ人たちはタイスの言葉に感動し、王に迫った。
王は言った、「復讐は、憎しみの連鎖しか生み出さない。ペルシャ人を許せ。」と。
しかし結局、タイスや、彼女に従っていた娼婦らに宮殿を焼くことを許した。

そう。この焼け焦げた宮殿こそがまさにその、略奪と蛮行の跡なのだ。
結局、タイスという女はいったい何者だったのだろう。何者でもなかったのかもしれない。卑賤な生まれで、心ならずも娼婦という仕事をなりわいとした。ペルシャ王族や、マケドニアの王族や士族らを相手に、上手に世渡りして、後にはなんにも証拠を残さない、ずる賢い女。あのプトレマイオスや王ですら手玉に取られてやけどしかねない女。
もう彼女とは会うこともないんだろうなあ。
「セレウコス。どうかね。私の意見は。」
「確かに、傾聴に値すると思います。ええ。私はパルメニオンに賛成でしたが、今少し考えが変わりました。」
「どんなふうに。」
「タイスとは別の理由で、この都はやはり、焼かれねばならなかった、と思います。」
「へえ。なぜ。」
「この都は失敗作だったのですよ。少なくともこの万国の門、万国の宮殿というものはこのパールサプラには不要だった。ふさわしくなかった。彼の帝国には不要な存在だった。だから王は焼いた。」
「ほう。なぜそう思う。」
「王も世界中に自分の名前を冠した都、アレクサンドリアを作りました。そこが戦略的な拠点であったからです。ある町は軍港として、またある町は山塞として作られました。
ところがどうです。このパールサプラは。戦略的な価値はまるでない。単にペルシャ王家の、ハカーマン家の墳墓があるというだけの町です。人里離れ、交通の要衝でもない。こんなところを万国の中心、万民の都と称すること自体が不便だ。しかもここが万民の心がペルシャ王家から離れるきっかけを作った。だから焼かねばならなかったのです。
王は宮殿を焼いてこの町を元の王墓の町に戻した。元の静謐に戻したのです。」
「ふむ。ハシャヤーラシャーより前の、ダーラヤヴァウ大王が建設した頃の姿が、この町の本来の姿ということか。」
列柱の頂きにはそれぞれ二頭の雄牛が背中合わせに屋根の重みを支えている。ところが今やその屋根は崩れ落ちて、碧空に牛たちだけが浮かんでいるようにも見える。
スーサでもなくバビュロンでもなくハグマターナでもなく、ここパールサに新たな王都を築いたのは、純粋にペルシャ人のためだった。単にここがペルシャ人の故地だからというに過ぎぬ。万民には何の意味もない。帝国経営に何の地政学的利点もない。ただ単にハカーマン家が世界を搾取して財宝を蓄積するためだけにこの「万国の都」は作られた。
「エジプトのファラオだって、クフ王のピラミッドの前に万国の宮殿なんて作らないでしょう?」
「たしかに。」
「ハシャヤーラシャーはペルシャ帝国が永遠に続くと考えて、それにふさわしい帝都を築くべきだと思ったのでしょうね。だからあえてこういう人工的な都市を、人影もまばらなペルシャ高原のまっただ中に作ってみせた。」
「そしてそれが逆にペルシャの死期を早めた。皮肉だな。」
「だんだん見えてきたのではないでしょうか。マケドニアという国の形が。この国があるべき姿というものが。」
