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バビュロンへの道

「見ろよ、あれがバビュロン城だ。」

そう言って、彼が指さす先をみれば、葦原のかなたに城塞が見える。

「やっとこの長旅も終わりか。へえ、あれがバビュロン?」

私たちは巨大な門の前に着いた。ここは、バビュロンの西の街区で、この門はエンリル門というそうだ。

跳ね橋を渡り、門をくぐると、ゼルダほか道案内役の遊牧民らと、私たち一行はお別れだ。名残惜しい。終わってみるとこの旅もあっという間だった。その間に私たちはずいぶん親しくなった。縁があったら、また会いたい気がする。彼らは雑踏の中に紛れて、やがて見えなくなった。

「やあ、ようこそバビュロンへ、エウメネス。」

エンリル門の守衛の知らせを受けて、私たちを出迎えたのはヘファイスティオンであった。おしゃれな柄のマントを羽織っている。

「さっそくバザールで買い物したようだね、そのなりは。羊の毛織物かい?」

ヘファイスティオンはくすっと笑う。「ああ。バビュロンには、羊が成る木があるんだぜ。」

「羊の木?嘘だろ?」

「ほんとさ。」

後で知ったことだが、それは「木綿」という植物の花の綿毛からとれる繊維で編んだものであった。まさか動物の羊が、植物の枝に実のように成るわけではない。

「そちらのご一行は?ずいぶん大勢だが。」ヘファイスティオンが連れの少年とその郎党をいぶかしがる。

「王に聞いていないのか。彼は、アンティオコスの子セレウコスだ。」

「アンティオコス?セレウコス?」

ヘファイスティオンは首を傾げる。

「プトレマイオスの従兄の子に当たる。ガウガメラでは君の麾下で戦ったはずだが?」 「さあ、よく覚えていない。」

近衛兵のヘファイスティオンが新参兵を知らなくてもしかたないし、セレウコスはヘファイスティオンの麾下に一瞬配属されたが、すぐにプトレマイオスとともに下がってしまったのだから。彼の父アンティオコスも、さほど目立たぬ武将だったのだろう。

「こんなに大勢とは聞いてなかったが、まあ、なんとかなるだろう。ついてきてくれ。」

エンリル門の詰め所に隣接して駅舎と厩舎がある。

駅舎にはラクダが何十頭もつないであり、次々に出て行っては入ってくる。私たちは乗ってきた馬をここで休ませ、代わりに適当に駅舎からラクダを借りて分乗する。

「ずいぶんな飼い葉が必要だろう?」

「ああ?ラクダの餌のことか。ここエウフラテスとティグリスの下流域では、人間が食い切れないほどたくさん大麦が採れる。だから大麦は刈り取った穂ごと、馬やラクダに食わせるのさ。」

「へえ。麦を家畜にも食わせるのか。贅沢だね。」

「ここらじゃ麦は、藁同然に売買される。耕地は大麦か小麦、稗、胡麻、穀物の畑ばかりだ。何しろここじゃ穀物は、蒔いた種の200倍、300倍が収穫される。葉や茎も、大木のように育つのさ。ここは穀物栽培に絶好の土地だ。
一方で、イチジク、オリーヴ、葡萄なんて果樹の栽培が試みられることはない。おっと例外があった。ここの連中は、俺らがアッシリアでイチジクを世話するのと同じやり方で棗椰子の世話をする。その実から油、蜜、酒。いろんなものを作る。
魚も、川からいくらでも獲れる。干した魚をすりつぶして、穀物のようにパンに焼いて食べる人もいる。
ともかくここで人は、少なくとも飢えで死ぬことはない。麦芽から醸したビールも、いくらでも飲める。」

「ビール?麦から作る酒か。」

「そうだ。」

「うまいのか。」

「葡萄酒のようにうまい酒だとかまずい酒だとか言って飲むようなもんじゃないな、あれは。水代わりに飲むものだ。生水を飲めば確実に腹を壊す。ビールなら安心だ。そしてワインよりはずっと安く酔える。」

「食い物も酒もただ同然ということか。」

「そういうわけだ。」

「では貧者はいないのか。」

「逆だよ。貧者だらけ、怠け者だらけだ。」ヘファイスティオンは吐き捨てるように言う。「ともかくもバビュロンに来れば、食えぬことはない、飢え死にすることはない。ただ毎日生きていさえすればよい。そういう牛や馬程度の品性しか持たぬ連中がこの街に世界中から流れ流れてふき溜まる。その吹きだまりが外城だ。いわばこのバビュロンという町に付帯している人間牧場。やつらはバビュロンが飼っている家畜。スラムとはそうしたものなのだ。
やつらはその最貧の境遇から這い上がろうという意思に欠けており、一切の努力をしない。従って貧者はいつまでたっても貧者のままだ。」

「どんな貧者でも、働かなくても、物乞いをすれば、麦を喰い麦酒を飲める?」

「ああ。無為徒食の輩がいくらでもいるよ、この町には。」

私はふとディオゲネスを思い出した。彼はバビュロンを理想郷と思うだろうか。

私たちはラクダに乗ったまま、市場の四つ辻を左に折れ、エウフラテスに懸かった橋を渡っていく。それは一種の浮橋、というか、例の葦の筏いかだを並べてその上に棗椰子の丸太を渡し、杉の皮で覆った舟橋であった。

一見、いい加減に作られた橋のように見えるけれども、大きな帆船や、或いは三段櫂船のような巨船が通るときには、杉の皮と丸太と筏をどかせば、通すことができる。敵襲にあったときには渡れないように撤収してしまえばよい。洪水で流されそうなときには陸に揚げてしまえばよい。

この舟橋というものは、ここメソポタミア地方ではいたるところで見られる一般的な架橋方法だが、実に合理的で機能的だ。

向こう岸、つまり東岸は小高い丘になっていてその上に城壁が築いてある。こちら側、つまり西の街区に比べると、極めて厳重に囲ってある。こんな真っ平らな、エウフラテスの下流域の大平原に、あんな高い丘などあるはずがない。東側の街区は、おそらく洪水を避けるために、相当に土を盛っているのに違いなかった。ラクダは重いのか重くないのか、無表情にゆらりゆらりとゆれながら、坂道を登っていき、私たちは城門をくぐる。

そこは棗椰子の街路樹が涼しげな木陰を作り、芝生が青々と茂り、水路を水が流れ、噴水が吹き上がる、よく風が通る庭園であった。

ヘファイスティオンは傍らの棗椰子の木に軽々とよじ登り、棗の実をもぎ取って私たちに投げ下ろす。私たちはその実を皮ごとかじり、種をぷっと地面に吐き出す。もう棗の食べ方なら、慣れたものである。

「面白い町だろう。」辺りを見回しながらヘファイスティオンが言う。「ここじゃ石材というものが貴重なのさ。神像とか、アーチとか、特別頑丈に作らなきゃならない箇所しか石は使わない。ギリシャじゃ、大理石がいくらでも採れるからな。城壁だろうが、橋だろうが、神殿だろうが、みんな石で造る。ここではそうはいかない。

バビュロンは、ティグリス・エウフラテスの川筋から離れると、エジプトと同じで、国土はほとんどが砂漠。しかしエジプトと違って、ここでは冬にけっこう雨が降るんだ。

この町は、土と砂で造られている。流砂の都だ。砂を焼き固めた煉瓦も、雨に降られちゃそのうち融けてもとの砂に戻ってしまう。

砂が融けて流れてしまっては困る箇所、例えば城門などは、雨よけに青銅でいているのだ。しかしその銅板も、百年に一度は葺き替えなきゃならんのだがね。」

つまり、ギリシャでごく当たり前に使われている大理石は、案外建材としては優れているってことなんだよなあ。千年くらいは軽く持ちそうだ。

「君も気付いたと思うが、この東の街区はエウフラテスの水面から、10ペーキュス(約5メートル)も高く土を盛って造られているのさ。ここじゃ、一滴の雨も降らなくても、遠くアルメニアのアララト山系に雨が降れば、この大平原が一面に水浸しになる。土地が平らで水は簡単に引かないから湿原があちこちに残る。

王宮はさらに十ペーキュス高台になっている。つまり合わせて二十ペーキュス、周りの平原から高く盛られてるというわけだ。その盛り土に使われる大量の土砂はいくらでも上流から流れてくる。というよりも、絶えず浚渫しゅんせつしてなきゃ川も溝も埋もれてしまう。そして町を維持するための労働力はいくらでも町の中で供給される。
そしてなんといっても、見ろよ、あのエテメナンキを。」

バビュロンのジグラット。七曜宮。あるいは天地あめつちの礎いしずえ、エテメナンキ。

バビュロンが誇る建造物の一つだ。

私たちは今まさにそのエテメナンキのすぐそばにさしかかったところだ。

「この塔は、基底部が200ペーキュス(約90メートル)四方。塔の基底から先端までも200ペーキュス。」

塔を見上げ歓喜の涙を流すセレウコス。ヘファイスティオンは得意げに解説を続ける。「何しろでかい町だ。エウフラテスをまたいで城郭は東西15スタディア(約3キロメートル)、南北10スタディア(約2キロメートル)の方形をなしている。

しかしこのほかに、エウフラテスの上流、北に15スタディアほど行ったところに、ネブカドネザル王が築いた夏の離宮があって、その夏の離宮までをすっぽり包むように広大な外城が巡らしてある。外城はネブカドネザル王の時代には葦が生い茂る沼沢地というに過ぎなかったが、ペルシャのクル王の時代からだんだんに開発が進んで、干拓されて、今は、町の外から流れ込んでくる貧民たちのたまり場、貧民窟になっているのだ。君、くれぐれも貧民窟には足を踏み入れぬのがよいよ。」

「そんなに危険なのか。」

「外城は、バビュロン市の一部のようではあるが、正規の市街ではない。いわば、城外に勝手に住み着いたバビュロン市民とも言えぬ連中が、やはり自分たちで勝手に城壁を拡張・修復しているのだよ。水はけが悪いから、洪水になればすぐに水没する。また、その城壁というものも、煉瓦を積み上げただけの粗雑なものだから、すぐに崩れる。補修しつつ次第に外の湿原へと、今も拡張が続いているのさ。」

「つまり、青銅で噴いた門構えを備えた城壁が、正規の城壁であって、その内側にいれば安全ということでしょうか。」セレウコスが律儀に確認する。

「まあだいたい治安は良かろうね。我々マケドニア人は、その旧市街の中の、北東角かどの区域を居留地にあてがわれているから、その中で生活している分には、言葉にも不自由しないだろうよ。」

「ヘファイスティオン、今、あなたの話を私なりに総合してみると、」私も確認してみる。「外城を合わせたバビュロンの市域というものは、ざっと、外港ペイライエウスを除いたアテナイの城域の二倍から三倍ほどの広さ、ということになりますね。」

「そうかもしれんね。」

「そのバビュロン市を我が王は、マケドニア軍は、やすやすと落としてしまったというわけか。」

「落としちゃいないさ。」ヘファイスティオンはシニカルに笑う。「まさにこのバビュロンは難攻不落の城だ。夷狄いてきがその武力で、力尽くで攻め落としたことはもう何百年とない。
バビュロンの無血入城は、アレクサンドロスが初めてではない。ペルシャのクル大王もまた、最後のバビュロニア王を追い、バビュロン市民はクルを自分たちの解放者として迎え入れたのだ。このバビュロン市街は、少なくともネブカドネザル王の頃から、一度も戦火に焼かれることもなく、そのままここにあるのだ。国ができては滅び、世界全土に戦乱の炎が燃え広がっても、戦争や自然災害で何万人、何十万人の人々が死に、いくつもの王朝が交替しても、バビュロンは変わらぬ。バビュロン市民の生活にはなんの影響もない。それがバビュロンという町の本質なのだ。
このバビュロンを焼くものがあるとすればそれは天の雷いかづちだけ。
このバビュロンを毀こぼつものがあるとすれば、それはティグリス・エウフラテス両河の流れだけだ。」

確かに、このバビュロンの城壁は、洪水から市街を守るために築かれた、堤防のようなものであって、その巨大さ、完璧さゆえに、副次的に、敵襲をも防ぐのである。

バビュロンという町を維持するためには市民による不断の努力が必要だ。ティグリス・エウフラテス川の治水工事は、永久に完成することがない。

そしてこの、悠久の時間の流れの中にあっては、バビュロンの礎も、シロアリが築いた蟻塚となんら変わりはない。まさに砂上の楼閣だ。何百年に一度か、城壁も町も、濠も畑もすべて洗い流し、流砂で埋め尽くして、更地に戻してしまう洪水が起きる。エウフラテスは流路をはるかかなたに変えてしまう。そうすると、河の恩恵で生きる人々は、河なくしては生きていけないから、人は別の場所にふたたび城壁を築き、新たなバビュロンを、自然から隔絶した人間の町を作る。この世界は神が作ったものであろうが、しかしバビュロンだけは人間が作り出したものだ。

「ところでどこまで行くのかね。まだ遠いのか。」行幸道路と呼ばれる大通りを逸れると道は下り始め、小川を渡り、私たちはなんども四つ辻を折れて町の奥へ奥へと入っていく。

「君らをバビュロンの端から端まで歩かせたな。しかしもうすぐさ。内城の北東隅。北西のイシュタル門、南東のマルドゥク門、そして南西のエテメナンキに囲まれた区画だが、そこはかつてペルシャ系市民らが住む街であった。彼らは大方バビュロンから逃げ出してしまったから、その空き家へマケドニア人がそのまま入る形になったというわけさ。

マケドニア人はひとまとめにその居留区に押し込められている。」

「王はいずこにおられるのか。そのマケドニア居留区にいるのか。それとも王宮におられるのか。王宮はどこにある。」

「王宮はな、エテメナンキの北側にあるが、まあ慌てるな、そのうち教えてやらんでもない。王は、王宮にもマケドニア居留区にもいない。俺にはとんと王の居所が知れぬのだ。」

「まさか。君が知らないはずがあるまい。」

「あいつは、子供の頃からそうやって雲隠れして、周りに迷惑がられていたよ。今に始まったことじゃない。気にするな。王は、このバビュロンで、いまだに何の正式な勅令も出さず、公式の儀式も執り行わないのだ。」

「いつから?」

「二ヶ月ほど前に、バビュロンに入城したときから、ずっとだ。」

通りすがる人たちの言葉にギリシャ語が混じるようになり、ギリシャ人が着る服を着た人々が行き交うようになった。どうやらここらあたりがマケドニア人に割り当てられた街区らしい。顧みれば、茜色に暮れかかった西の空にエテメナンキのシルエットが突き出している。

「ヘファイスティオン、王はガウガメラの戦いではご無事だったのか。」ヘファイスティオンは王の一番の側近であるから、私はセレウコスに聞いたことを確認してみないわけにはいかなかった。

「ガウガメラの戦い?」

「ああ。」

ヘファイスティオンはやや記憶をたどるようであった。「多少怪我をなさったが、と言っても捻挫やら擦り傷程度だ。だがね、ペルディッカスがやられたよ。」

「ああ、セレウコスに聞いたよ。まさか死にやしなかっただろうね?」

「クレイトスに助けられなければ、もう少しで鎌戦車にずたずたにされて、挽肉になっていたところだった。ペルディッカスが落馬したところへ敵の鎌戦車が殺到した。クレイトスは敵の射手と馭者を長刀なぎなたでなぎはらい、その太い片腕で、地面に斃れていたペルディッカスを、ずだ袋を拾い上げるようにして、肩に担いだのさ。」

「ペルディッカスはクレイトスに借りができたわけか。」

「はは。まあ、そういうところだ。」

「ペルディッカスを見舞ったほうが良かろうか。」

「いやそんな気遣いはいらん。足を骨折してまだ歩けぬが、もうだいぶ回復した。会って話がしたいなら別だが。」

「そうか。」

「俺も実はやられたんだ。実際、王の親衛隊の多くは負傷し、死んだやつもいる。」

「クレイトスはどうだった。」

「やつも背中に、ハリネズミのように矢が立ったよ。ただあいつの場合、分厚い背脂に矢が刺さったくらいじゃびくともしないがね。」

「君はどこをやられた。」

「兜を割られ、眉間を斬られた。ほらここだ。」ヘファイスティオンは自分の額を指で指し示す。「三針縫った。」そうか、ヘファイスティオンすら負傷したのだ。

「大した傷じゃなかったが顔中血だらけで目を開けてられない。王がたいそう俺のことを心配してくれてな。そこへ敵将マヅダーヤが陣形を整えて、敗走にかかったペルシャ王との間に割って入った。マヅダーヤ軍はそれまで戦闘に係わっておらず、ほとんど無傷だったんだ。
そこへ、パルメニオンから救援の一報が届いたんだ。」

「救援を断る知らせ、だったんじゃないか?」

「断られたからと言って助けぬわけにはいかんじゃないか。」ヘファイスティオンは苦笑する。「そこでとうとうアレクサンドロスは、ペルシャ王を追撃するのを諦めたのだ。」

「そうか。我が軍の圧勝というわけではなかったんだな。」

「まあ、はたから見ていれば、我が王はピンピンしており、俺らが押して押して押しまくり、ペルシャ王は逃げてばかりいたようにみえるが、そういうわけじゃ全然なかった。綱渡りのような、ギリギリの勝利だったよ。」

私も、あやうく死にそうになったんだがなあ、コリントスやクレタで、と言いたくもあったが、彼らのほうがもっと生死の境をさまよっていたのだった。